各界の著名人が、今も忘れえない「母の記憶」とその「教え」について熱く語る――。
(左)オルビス代表取締役社長 阿部嘉文さん(右)母・アヤさんの実家は下駄屋で8人兄弟の末っ子として育つ。女学校時代に保母と幼稚園教諭の免許を取り、結婚後も働いていたが、「小3の頃、母親が家にいないのはイヤだと言ったそうで、それで家に入ったらしい」と嘉文さん。

おふくろはごく平凡な女性でした。私がよく言われたのは「人をうらやむな」という言葉。一生懸命勉強して、人より一歩でも二歩でも先行くことを望むのではなく、むしろ「人様に迷惑をかけたり、うらやんだりしてはいけない。平凡がいちばん」と諭すような母親でした。

小学生の頃、「○○君は学級委員に選ばれたけれど、俺はあまり票が入らなくて悔しかった」と話したときも「人を妬んでもしょうがない」と。中学、高校生になっても変わらず言われたことです。子ども心にも、おふくろのような平凡な生き方は楽しいのだろうか、と疑問を感じたこともあります。それでも級友に母親のことを褒められ、うれしかった出来事がありました。

郷里の秋田県鹿角郡は鉱山と農業の町で、貧富の差も大きかったです。鉱山を経営する企業の社員は立派な一戸建てに住んでいても、地元の人は長屋で質素に暮らしていました。

当時は小学校で給食が始まった頃でしたが、土曜日は弁当を持参しなければならず、貧しさゆえに、おにぎりさえも持って来られない子がいました。それでいじめられる子もいるのだと家で話すと、おふくろが土曜日に蒸しパンをつくってくれました。レーズンの入った蒸しパンを20個くらい。さすがに気恥ずかしさもあって「俺はおにぎりがいい!」と抵抗したものの、母親はただ「いいから持って行きなさい」とだけ言って、全部持たされた。

仕方なく学校で友だちに「よかったら食べてくれないか」と配ると、大好評でした。弁当を持って来られない子たちは「おいしい」と喜んで、「おまえのおふくろさんは蒸しパンをつくるのがうまい」と褒めてくれる。家で報告すると、おふくろもすごくうれしそうでした。あのときは何も語らずに蒸しパンを持たせてくれたけれど、弁当がない級友を案じる、母なりの気遣いだったのですね。

化粧品っていいものだと母が教えてくれた

もともと子どもが好きで幼稚園の先生をしていたこともあり、情操教育の一環と考えたのか、私も幼稚園の頃からオルガン教室へ通わされました。教員の家庭で余裕もないのに、小学校に入るとピアノまで買ってくれて。田舎の学校なので「男がピアノなんてカッコ悪い」と友だちから、からかわれるのがイヤで、小5で教室をやめてしまいました。

ところがおかしなもので、子ども時代、母親にピアノを習わされなければ、たぶん私は化粧品業界に入っていなかっただろうと思います。

(左)父親は小・中学校の教師で陸上部の監督。鹿角郡は鉱山の町で、一家も鉱山で働く人たちが住む長屋で暮らした。妹が誕生したときの家族写真。(右)幼稚園時代、母親と運動会で一緒に走った懐かしい思い出。上京するとき、母から渡されたアルバムをずっと大事にしている。

今でも覚えているのは、ピアノの教室へ行くとき、おふくろがいつも頭をくんくん嗅いで、「頭が臭うよ」と言われたこと。あの頃は風呂が家の中でなく外にあったので、冬は寒いし、面倒くさいので頭も洗わず、汗臭かったのでしょう。おふくろはポーラの化粧品を使っていて、そのヘアトニックを頭にちょっとつけてくれたのです。すると、フワッといい香りがして“化粧品って、いいもんだな”と(笑)。子どもながらにうれしかったものです。さらに中学生になると顔のニキビがひどくなり、つい気になって潰してしまう。それで母親がニキビ用の化粧水を付けてくれたところ、あっという間にきれいになったのです。ポーラの化粧品を愛用する母のもとには「ビューティ専科」という美容情報誌も届き、居間の卓袱台(ちゃぶだい)によく置いてありました。それを見ると東京の匂いがするような気がして、かすかな都会への憧れも持ったものです。

大学進学とともに上京し、就職活動をするなかで、唯一受けた化粧品会社がポーラでした。面接では子どもの頃の思い出を話し、入社の内定をもらいましたが、実はいちばん反対したのが母親だったのです。「おまえには営業センスがないから、化粧品を売るなんて無理だろう」と。俺が直接販売をするわけじゃないと説明したのですが、親心としては心配でたまらなかったようです。

それでも帰省すると、母親にもよく仕事の話をしていました。新商品が出るとプレゼントすることも欠かさず、なにより喜んでくれたのが香水です。「ランコントレ」という名の香水で、青いガラスの容器がとてもきれいだったことと、母親に似合いそうに思えて選びました。おふくろも、好きな香りだと喜び、大切に使ってくれました。

もっとも社会人になってからも、わが子に望むことは変わりませんでした。「平凡がいちばん。与えられた目の前のことをコツコツやることが大事だ」とずっと言い続けていました。私も子どもの頃はいろんな夢を見たし、学生時代は最高の人生の設計図を勝手に思い描いていたけれど、社会人になると現実の厳しさに直面。実は平凡に生きることこそが難しいと自覚していくわけです。

平凡でいいと言われても、人は心のどこかで人より一歩でも前に出たいと焦り、自分がいかにがんばっても他人が評価されると悔しさがつのる。どうしても人をうらやみ、人生の勝ち負けにこだわりがちです。けれど、母から教えられたのは、どんなときも心惑わされず、平凡でもきちんと生きていくことのほうが人間としてはるかに大事だということ。社会人になってようやく、母の思いがわかるようになりました。

(左)「母は子ども好きで、近所の子を預かっては保育園のようなことをしていた。洋裁や料理も得意で、おふくろの味といえばきりたんぽだった」(右)母にプレゼントした香水「RENCON TRE(ランコントレ)」(ポーラ)。温かくてやさしい母性のような香りが特徴。

母の言葉を指針に人生を歩み続ける

そんなおふくろが他界したのは29年前、まだ62歳という若さでした。長膠原病(らくこうげんびょう)を患い、病院へ見舞いにも通っていたけれど、まさかそんなに早く亡くなるとは思っていなかった。母親が「もう長くないかもしれない……」と漏らしたときも、「何を言ってんだ。こんな病気くらいで死ぬわけないじゃないか」と励まして帰ったのですが、それから数カ月も経たず逝ってしまい、死に目にも立ち会えませんでした。

母親に十分な親孝行をできなかったことが負い目となり、悔やまれてなりません。せめてもの気持ちから、東京の自宅にも母親の位牌(いはい)と写真を置き、毎日のように会話するようになりました。だからこそ、母親のことを思い出す機会も生前より多くなったような気がします。

今でも時々、こんなときにおふくろだったらどう言うだろうか、と考えることもあります。例えば仕事上で決断を迫られるとき。ここは強引に押し進めたほうがいいのか、それで誰かを犠牲にしてはいないかと迷ったときに、母親の言葉が頭に浮かぶのです。「人様に迷惑をかけるな、平凡でもきちんと生きていくことが大事なのだ」と。きっと母親ならこう言うでしょうし、それが今もなお、自分の進むべき道を示してくれる指針になっています。

阿部嘉文(あべよしふみ)
1956年、秋田県出身。早稲田大学教育学部卒業後、ポーラ化粧品本舗(現ポーラ)に入社。ポーラ北九州販売社長、ポーラ・オルビスホールディングス総合企画室長などを経て、2012年にオルビス常務取締役、14年に同社・代表取締役社長に就任。16年、公益社団法人日本通信販売協会会長。