17歳で「ネガティブタレント」としてブレイク。その後、「発達障害」を告白したモデルの栗原類さん。「日本流の子育てに当てはまらないような、柔軟な育て方をしてくれた」という母・泉さんについて聞きました――。
(左)母・泉さんが類さんを出産したときの写真。「僕には感覚過敏があり、保育園の子どもたちの歌声を聴くだけで逃げ出したくなるような症状がありました。忘れ物も多く、強いこだわりもあったので、母の子育ては大変だったと思います」(右)モデル・タレント 栗原 類さん

日本流の子育てではない、柔軟な育て方をしてくれた母

母は東京生まれ。今もフリーランスで来日した歌手の通訳や翻訳を担当し、音楽雑誌で活動しています。母は20歳のとき、英語を勉強するためにニューヨークに留学しました。その後はロンドンに引っ越し、父と知り合いましたが、いろんな面で父との関係がうまくいかなかったので、妊娠がわかっても結婚はせず、出産直前に帰国してシングルマザーとして僕を産み、育てました。

母は僕を産むまで、フリーターのような生活を送り、のんびり暮らしていましたが、僕を育てるために仕事に就き、通訳の仕事を始めたようです。それまで自由に生きてきた人なので、もともと考え方が柔軟だったのかもしれません。だからこそ僕を日本流の子育てに当てはまらないような、柔軟な育て方をしてくれたんだなと思っています。8歳のときに発達障害(ADD=注意欠陥障害)の診断を受けてからも、母なりのやり方で生活していました。

僕は記憶力が弱く、過去の記憶をたどるのが苦手ですが、今思い返してみると、母と僕との間には、頻繁に“以心伝心”の現象が起きていました。母は僕のことをものすごく理解しているなと感じます。例えば、仕事でものすごく疲れて帰ると、「食べたいな」と思っていたカレーがつくってあったり(笑)。「なぜ、僕が望むことがわかるんだろう? 親ってすごいな」と思うことが頻繁にあります。

実は母も、僕が診断されたと同時に発達障害(ADHD=注意欠陥多動性障害)の診断を受けています。ですが、母と僕の性格や特徴は正反対。僕は記憶力が弱く、どんなにイヤなことがあっても翌日にはすべて忘れてしまいますが、母は細かいことまですべてを覚えている記憶力の持ち主。僕が「いいな~」と思う一方で、母は、イヤなことをすぐに忘れてしまう僕のことをうらやましいと思うようです。

何が重要なのか……、母なりのロジックがある

物心ついた頃から母が口癖のように言っていたのは「人に感謝の気持ちを持つ」ということ。その視点は、子どものうちは、親が教えないと持てないものだったと思うので、今も感謝しています。今までの人生、いいこともたくさんあったし、いじめられたり環境になじめなかったり、イヤなこともたくさん経験しました。でも、いいことがあったとき、自分でうれしいと思うよりも、まず最初に「機会を与えてくれた人、サポートしてくれた人に感謝の気持ちを」と、母にそう言われながら育ちました。「たくさんの人に支えられているからこそ、自分は安心してこの仕事ができるんだ」ということを教えられました。

中学校の入学式。「母も発達障害なので、学生生活を楽しめなかったそう。そのときに母が大切だと感じたことを、引き継いでほしかったのでしょう。そんな母に心から感謝しています」

幼い頃、母は塾や習い事をさせませんでしたが、そのおかげで伸び伸びした学生生活を送ることができたし、母は常にハードルを低く設定してくれました。だからこそ、僕は自己肯定感を失わず、その低いハードルを飛び越えてこられたのだと思います。

発達障害の特性の一つとして、「他人にどう思われるかに関心がない」ということがあります。僕自身もそうで、良くも悪くも人の評価を全く気にしません。そのため、他人とうまく折り合うことができなかったり、迷惑をかけてしまったりすることも。それはやはり社会生活を送るうえでは問題があり、本来なら改善すべき症状です。でも裏を返せば、他人にどう思われようが気にならないので、ストレスを感じず「自分は自分!」というブレないスタンスを持つことができる。けれど、周囲の反応が気にならないので、モチベーションを高め続けるのが難しくもあります。「今の自分には何が足りなくて、具体的にどうすればよいのか」ということを自分では解決できないので、母が整理して分析してくれます。僕はのんびりしていますが、母は逆で何事に対しても積極的。そういう母がサポートしてくれているからこそ、「仕事をしていくうえでのモチベーションが保てている」のだと思います。

アメリカでの教育の必須項目として「リーダーシップのある子に育てる」という概念があります。僕はリーダーや上の立場になるのが子どもの頃から苦手でしたが、母は「イヤならリーダーにならなくてもいいけれど、人の上に立って威張ったり、指図したりするのは本当のリーダーじゃない。人をまとめたり自分よりできない人をサポートしたり、人に動いてもらうにはどうしたらいいか、どう伝えればいいかを考える人こそがリーダーなのよ」と言いました。

「リーダーシップ=人をサポートできる、そういう能力を努力して身につけてほしい」とも言われました。これも、僕の中で印象に残っている母の教えのひとつですね。母には、社会で生きていくために何が重要であるのか、自分なりのしっかりとしたロジックがあるように思います。僕はそんな母のロジックに共感するので、母の言葉はどんなときもとても大切にしています。

テレビの仕事を徐々にやり始め、「ネガティブタレント」と呼ばれて忙しくなった時期がありましたが、母は「こういう忙しいときだからこそ、ダンスとか何か別のことを身につけたほうがいい。そういう努力をすることで、今後の仕事も変わってくるし、何かをやり続けておけば2、3年後には新たな挑戦へと結びつく」とアドバイスしてくれました。頭ではわかっていても、僕は目の前の仕事でいっぱい、いっぱい。自分を鍛える、磨く努力を怠ったまま3年が経ってしまって……。

当たり前のことですが、テレビに出始めた頃に比べたら、仕事に波を感じるようになり、母の忠告を実感しました。母と僕は、これまでの人生、この繰り返しで来ているように思います。自分の本を出版するにあたり、母が書いた文章を読み、改めて自分の愚かさを実感しました。「あー、僕はなぜ母の言うとおりに行動しなかったのだろうか……」と。僕の人生を、すべて先読みしているように見える母の存在は、やはり偉大です。

僕は自称フェミニスト。女性は強くて怖い生き物で、男はバカな生き物だと思っています(笑)。家庭にしろ仕事にしろ、女性が男の事情を察して我慢しているからこそ、世の中は成立しているんですよ。僕は働く女性がもっと増えてほしいと願います。そういう女性が増えることによって、男性側にも、より女性に対するありがたみや感謝の気持ちが生まれると思うから。

(左)東京の公園で(右上)『ファインディング・ニモ』は衝撃を与えてくれた作品で、初めて自分から感想を伝えた/母が好きだったバンドのCD(右下)「パワーパフガールズ」「サウスパーク」など、類さんの情緒を育むため、母が見せたアニメやバラエティー番組のビデオ
栗原 類
モデル・タレント。1994年、東京都出身。英国人の父と日本人の母との間に生まれる。8歳のときN.Y.で「発達障害」とわかる。11歳で帰国。中学時代にメンズファッション誌でモデルデビュー。17歳で「ネガティブタレント」としてブレイク。パリコレのショーモデルなどを経て、現在は役者としても活躍中。2016年10月に著書『発達障害の僕が輝ける場所をみつけられた理由』(KADOKAWA)を発表。自らの障害を赤裸々に語る。