ありのままの自分を受け入れたら夢が生まれてきた。目が見えないからこそ、世界を目指すチャンスをもらえた。

リオで初めて正式種目となった視覚障がい者女子マラソンで、メダル獲得が期待されているブラインドランナー、道下美里さん。

2013年に日本記録を樹立し、15年4月のロンドンマラソンでは銅メダルを獲得。その直後「目の不自由な娘に産んでくれてありがとう」と母に告げたという。

「元々、マラソンが得意だったわけじゃない私が、30代後半で世界の頂点を目指すチャンスに巡り合えた。それは、目が見えなくなったおかげだから」

道下美里さん●三井住友海上火災保険所属。1977年生まれ。20代半ばで両目の視力をほぼ失い、特別支援学級へ入学し、陸上競技に出合う。2008年よりフルマラソンに挑戦し、13年大阪国際女子マラソンに出場。身長144cmと小柄だがピッチ走法が強み。世界歴代2位の記録を持つ。

視力を失い希望と出合う

道下さんが目の異常に気づいたのは、小学4年生のとき。膠様(こうよう)滴状角膜ジストロフィーという難病を発症し、中学生で右目の視力を完全に失った。「それでも、短大まで卒業して働きだしたのですが、25歳で左目も発症し視力は0.01に。そのときは、絶望しましたね」

人生の暗闇から救い出してくれたのは、走ることだった。

「通い始めた特別支援学級で陸上をやってみたら、風を切る感じが懐かしくて、うれしくなった。『見えなくても走れる』という経験が自信になり、夢中になりました」

福岡市の大濠公園は練習場所の一つ。この日の伴走はチーム道下のメンバーの和田直人さん。

中距離で国際大会に出場するも、世界の壁を感じて挫折。その後、趣味としてマラソンを始め、結婚を機に福岡へと移り住んだ。「どこにいても走りたい」と、大濠(おおほり)公園ブラインドランナーズクラブ(OBRC)を訪ねてみると、そこにはポジティブで陽気なランナーが多く在籍していて、道下さんを走りの世界へと誘った。夫も母も、彼女の挑戦を温かく見守った。

「初めて世界選手権に出たとき『私はやっと障がい者としてのスタートラインに立ったんだ』と思いました。ありのままの自分を受け入れた瞬間でもありました」

 

チームで目指す五輪

今の課題は、ピッチに頼らずストライドを伸ばすこと。そのためには、柔軟性のある筋肉を作り、体への負担を減らす必要がある。道下さんはリオに向け、体幹トレーニングとヨガを取り入れた。

「それまで小さい体でストライドを大きくするのは難しいと思っていました。でも『どうしたらできるのか』を考えて動けば、何度でも限界は超えられるんだなって」

もうひとつ、道下さんの限界を押し上げてきたのが、OBRCのメンバーらが立ち上げた「チーム道下」の存在だ。視覚障がい者マラソンは「絆」と呼ばれるロープを走者と伴走者が持って走る。伴走者は道の段差、坂の傾斜などを走者に伝え、導く。いわば、二人三脚の競技。チームの信頼関係、まさに「絆」が、メダル獲得の鍵なのだ。

「絆」と呼ばれるロープを持って伴走者と一緒に走る道下さん。144cmと小柄な体で軽やかに走りながら、時折笑顔がこぼれる。インタビュー中も終始笑顔。「『そのままの私でいい』と言ってくれる人たちと一緒に夢を追いかけられる。今、とても幸せです」

「チーム道下は、一体感が半端ではない。目が見えないことを忘れてしまうほど自然でいられる」と笑う道下さんだが、負けず嫌いの彼女が自然に人を頼れるようになったのは最近のことらしい。

「友人が連れていってくれた働く女性向けの講演で、『30代にもなれば自分のキャパはわかっているのだから、できないことは人に任せ、できることをやる。それが、仕事ができる人だ』という話を聞いて目から鱗が落ちました」

自分にないものに固執しないこと。自分の持ち味を最大限に生かすこと。目標達成やチームワークの秘訣は、ランナーとして道下さんがこれまでやってきた限界を乗り越える方法そのものだった。

「チームでの私の役割は走ること。そこに集中すればいい。ほかはメンバーに任せる。それが役割分担だ」と気づいたとき、周囲への感謝の気持ちが強まった。自分らしさを大切にして開示するようになると、出会いは広がり、リオへのチャンスが舞い込んできた。

「障がい者が自然体で過ごせる社会になってほしい。それには、もっと、知ってもらう必要がある。だからこそ、障がい者と健常者のチームで一緒に金メダルを取りたい。そして、東京パラリンピックにつなげたいんです」