国際レースF3で女性で初めて表彰台に上がった井原慶子さん。レーサーとしては25歳と遅咲きのデビューながら勝てた理由は、地道にコツコツ努力を重ねたからだという。
グリーンのフェミニンなワンピースに身を包み、静かにほほ笑む井原慶子さんに相対していると、この人が大きなエンジンを搭載したフォーミュラカーをかっ飛ばし、世界を舞台にレースを繰り広げ、表彰台に上がった初の女性である事実がピンとこない。だが、「大切なものは、なんといってもこれ」とバッグから取り出し、見せてくれたものはお守り。そこに、常に死と隣りあわせの職業を選んだ人の心中が垣間見えた。井原さんにとってのお守りは、神社を訪れた記念ではなく、判断を誤ると死と直結する自らの無事を祈るための、本気のよすがなのだ。
学生時代、モーグルスキーの全国大会で入賞した経験を「当時、モーグルはマイナーで競技人口も少なかったから」と謙遜するが、そのモーグルの遠征費用を稼ぐために始めたモデルのアルバイトが、井原さんのその後の人生を決めた。
「渋谷でスカウトされ、簡単に稼げると思ったら、そんな甘い世界じゃなかった。オーディションに落ち続け、すっかり自信をなくしました。モデルになりたかったわけじゃないのに、落ちるとやはり傷つくんですよ。あなたはきれいじゃない、かわいくない、と否定されたように感じるから。
ただ、合格者を観察したら、必ずしも目鼻立ちが整っている人ばかりではなかったんですね。彼女たちがなぜ選ばれたかといえば、自分の魅力を最大限に見せる細かい工夫をしていたからです。それなら私もやってみようと地道に工夫を重ねたら、努力が報われました。この成功体験は、能動的に動き、やり遂げた経験として重要でした。私はこのとき、困難の乗り越え方を学んだと思います」
そうしてつかんだモデルの仕事のうち、レースクイーンの仕事が井原さんに新しい世界を見せてくれた。チーム一丸となって車を整備し、命がけで闘うレーシングドライバーの滑走の成功をアシストする現場は活気と迫力があった。エンジンの爆音にもしびれた。レースクイーンとして華を添えながら、いつしか「自分もレーシングカーで走りたい」という夢が生まれたという。
当時、普通免許すら取得していなかったため、まず免許を取ることからスタート。コツコツ努力しても、デビューがこの世界では遅咲きの25歳になったのは仕方がない。ロールモデルとなる女性ドライバーがいない中で、どんなに小さな疑問もないがしろにせず、がむしゃらに立ち向かった。そうしたなか、女性が少ない世界ならではの苦労もしたそうだ。
「女のくせにと煙たがられたし、見下されもした。一方で、女だから注目されると妬まれることもありました。でも、ひとたびレースに出たら条件は同じ。レース前にどれだけ細かい準備を重ねてきたか、それで勝負が決まる。レースにつきものの命を左右する瞬間的な判断は、十分な準備があって初めてなされます。つまり、現場に来たときにはもう勝負は決まっている。だから私は気持ちを集中して準備することをもっとも大切にしてきました」
現在も、ル・マン24時間耐久レースで日本人最高位入賞を果たすなど現役を続けながら、マツダと組んで後進の女性ドライバー育成に奮闘中だ。女性はもっともっと強くなれる。井原さんの人生がそれを証明している。
1973年愛知県生まれ。法政大学経済学部在学中に、レースクイーンのアルバイトをきっかけにモータースポーツの世界へ。2002年、マカオグランプリで女性で初めて表彰台に上がり、女性レーシングドライバーのトップに立つ。FIA(国際自動車連盟)アジア代表委員。