「駐在員の奥さんになりたかったんです」と八木由香子さんは、ゆっくりとした口調で話す。
現在、ハーバード大学の医学研究機関で働く彼女は、医療診断のための画像解析技術開発をしている。この分野を世界的にリードしている一人であり、大学院生や研究員を指導しながら、論文執筆や学会発表を行い、世界各地へ年間25回程度の講演にも出かけている。“バリキャリ”に見えるが、ここまでの道のりは意外なものだった。
就職は結婚までの「腰掛け」
2人の兄がいる末っ子として育った八木さんは、かわいいものが大好きで、子どもの頃はサンリオの月刊紙「いちご新聞」を欠かさず読む女の子だった。化学や数学の成績が良かったので何となく東京理科大学に進学し、卒業後はニコンに入社した。
配属されたのは、顕微鏡開発設計部門。男女雇用機会均等法が施行されて間もない当時、女性技術開発者とどのように仕事をすればいいか試行錯誤だったのだろう。取引先の病院では、お茶が出され、菓子も添えられていることがあり、お客さま扱いだった。彼女自身にも「腰掛け」の意識が多少あったことは否めなかった。
「恩師」との出会い会社員から研究者へ
ところが、入社3年目に担当した国立がんセンター(当時)は違っていた。患部組織の一部を顕微鏡で調べて病変の種類や性質などを見分ける病理診断を、コンピュータネットワーク上で行う遠隔医療に関する共同研究開発がテーマだったが、そこに携わる医師の多くが、八木さんを一人の技術開発者として扱ってくれたのだ。この頃から、「この人たちに認められたい」と、彼女自身の仕事に対する取り組み方も変わっていく。
そんな彼女に転機が訪れた。その研究機関での仕事がまとまりかけた頃、ある医師から、それまでの仕事を論文にするよう勧められ、初めて学術論文の執筆に取り組むことになったのだ。医学用語もわからず、何とか仕上げたというレベルだったが、その医師は真剣に添削してくれた。彼女が「恩師」と呼ぶこの医師の指導が、会社員から研究者へと転身するきっかけとなる。
その後、論文や国内の学会発表を通じて遠隔病理診断の実現を目指す仲間もでき、海外での学会発表の機会も得られた。英語があまりできなかったが、すべての質問に丁寧に答えたことで、欧米の研究者や医師の知り合いも増えていった。
自身の強みを発見し拠点を米国へ
海外にも多くの仲間ができつつあった頃、米軍病理学研究所(以下、AFIP)から研究員としてのオファーがくる。遠隔病理診断分野をリードしていた日本から研究者を招きたいと考えていたのだ。
しかし、社内では「なぜ女性の八木が米国に」という声が上がる。がん診療ネットワークづくりに貢献し所属部門が拡大していたが、皮肉なことに、経緯を知らない同僚や上司も増えていたのだ。
最終的には、周囲の力添えもあり、会社に在籍のままAFIPと共同研究を行っていたジョージタウン大学での研究機会をつかむことができたが、日本で働き続けることの限界も感じていた。
遠隔病理診断という研究分野は医師が研究者の中心である。そのため、医学分野にも明るい“技術系”研究者は米国でも重宝され、滞在中に複数の大学から新たなオファーを受ける。
派遣期間が終わる頃、ついに彼女は決意する。
「拠点を米国に移そう」
それまでの知識と経験とネットワークをフルに活かし、ピッツバーグ大学で研究者として働くことを選んだのだ。
世界トップクラスの医療機関へ飛び込む
ピッツバーグ大学で10年間研究に励んだ後、2007年に東京医科大学で医学博士号を取得。それと同時に、マサチューセッツ総合病院(以下、MGH)に招かれ、研究拠点を移すことにした。
MGHは世界でもトップクラスの医療機関であり、医師やスタッフも多いが、その病理部門で“工学”の専門家を助教授として採用するのは1811年に設立して以来初めてのことだったという。
現在の医療情報分野は、米国が世界をリードしている。その米国でキャリアを積んできた八木さんは、最近では年に何度も帰国し、大学や研究施設で講演やアドバイスをする立場になった。その依頼先の中には、かつての職場の名前もある。
キャリアを決定づけるものは何か
彼女は現在のポジションまで一直線に進んできたわけではない。むしろ、目の前に現れる壁を一つずつ乗り越えた結果が今の姿だ。
スタンフォード大学でキャリア論を教えていたクランボルツの「計画された偶発性理論」( 『その幸運は偶然ではないんです!』より)によると、個人のキャリアの8割は予想しない偶発的なことによって決定される。寿退社を望んでいた八木さんが自らの力で海外に拠点を移したきっかけも、決して計画されたものではなかった。キャリアの初期において、恩師に出会えたという偶発性によるものだ。
しかし、出会えただけで道が開けるわけではない。こわもてといわれていた恩師に臆することなく教えを請うたことで、学術論文執筆、学会発表、海外での研究機会など研究者につながるアクションを起こせたのは、彼女自身の以下の3つの特長の賜物なのである。
まず、何事にもしなやかに対応できることだ。会社員時代は、質問されれば自分が担当しない製品についても勉強し、回答した。相手の期待に応えるためにベストを尽くした結果、工学と医学の専門知識を持つユニークな存在になることができたのである。
次に、人を巻き込む力があること。がん診療ネットワークを立ち上げ国内の研究者を結びつけたり、最近では、世界中の研究者のネットワークづくりの中心にもなっていて、医師が多いデジタルパソロジー学会の会長も務めている。
「いろんな人をつなぐのは好きだけど、リーダーになるのは苦手」と謙遜するが、人種や性別、立場を気にせず、誰とでも親しくなれる魅力を、彼女は持っている。
最後は、好奇心の強さと持続できる能力が高いこと。疑問がわきあがればとことん調べ、ときには面識のない人とコンタクトを取る。
「自分の限界を決めるのではなく、どこまでできるのだろうと思いながら働く方が面白いのではないでしょうか」――「いちご新聞」に夢中になった少女は、その頃と同じ熱い思いを研究対象に注いでいる。
マサチューセッツ総合病院 PICTセンター ディレクター、ハーバード大学 医学大学院助教授。東京理科大学工学部卒業後、(株)ニコン入社。米国ジョージタウン大学、ピッツバーグ大学医療センターを経て、2007年より現職。医学博士。写真は最新の病理標本のデジタル化装置の前で。彼女のもとには世界中から開発中の機器が集まり、評価を求められるという。