Q 「戦争法案」と揶揄される安保関連法案ですが、本当の争点はどこなのでしょうか。

賛成派の論点

●同盟を通じて自国を守りたいなら安保政策を整備するべき

安保法制の是非を論じる前に指摘しておきたいのは、安全保障論議を法律論だけで語ってはいけないということだ。まず日本を取り巻く国際情勢認識があって、どのような安全保障政策が必要かという議論があり、その実現のために法律をどう整備するか、というのがあるべき順序だ。しかし国会での論戦をはじめ、法律論、なかでも特に限定的な憲法解釈論に終始してしまっているのは残念だ。

情勢認識としては、中国の軍拡による脅威の増大と北朝鮮の核保有化、その一方で米国の相対的国力の低下とそれに伴う米国民の内向き志向がある。そして大きな背景として、軍事技術の進化がある。現代のハイテク装備は情報技術の塊のようなもので、情報・指揮系統の一体化が不可欠。現代戦では、一体化していない軍隊の連合はほとんど役に立たない。

現在の日本は、集団的自衛権は有していても行使できないという状態にあり、現場の自衛隊の活動にもさまざまな制約がある。東アジアには中国や北朝鮮の軍事的脅威があるが、日本が同盟を通じて自国を守りたいのならば訓練や共同の作戦にあまり否定的であってもよくない。

安保法制は、日本の防衛のためには日米同盟が機能することが重要であり、そのために集団的自衛権の行使が必要という観点に立っている。それは現代戦の現実を踏まえた技術的な要請でもある。日米安保体制を普通の同盟に近づけるという意味で、今回の安保法制は環境の変化に合わせた時宜を得た判断だと思う。

安保法制が憲法違反ではないかという声が野党だけでなく一般でも広がっているが、無理ないことだと思う。しかし、そもそもは1950年に警察予備隊(自衛隊の前身)が創設されたことから違憲の疑いがあって、集団的自衛権を部分的に認めた99年の周辺事態法もそうである。実は今回の安保法制というのは乖離してしまった実態と名目を再び近づけるもので、日本が軍隊を持つ“普通の国”になる最後の仕上げともいえるだろう。

その上で忘れてはいけないのは、「日本は第2次大戦の敗戦国であり、今回の安保法制は“再軍備”の最後の1ピースである」という視点だ。戦後の日本は自らを危険な国と規定することで、集団的自衛権を行使できない国、特別の制約が必要な国として制限を課してきた。他方で、日米同盟の上に乗って経済成長を優先したという側面もある。だが、この過程で、日本は戦争をしない平和な国=優れた国だという思い込みを醸成してしまってはいないだろうか。それは言うなれば素朴なナショナリズムでもある。

今や世界の平和なくして日本の平和は成立しえない時代である。自らを特別な国と思うのではなく、戦後70年にわたって幸い国際情勢が日本の平和を守ってくれた。その間に平和の果実をしっかり噛みしめ、価値を理解した。同時に戦前の過ちの教訓を持っている。そういう意味では特別な国なので、その教訓を各国に伝えていく――そんな立場こそが日本に求められているのではないだろうか。

最後に、安保法制成立後に危惧されるのが、それを運用する国会議員の能力だ。国会での論戦でも、安保法制適用上、一番困難が予想される東アジア(東シナ海、朝鮮半島、台湾海域など)を想定した議論がほとんど行われなかった。

例えば、尖閣諸島海域で日本の漁船が民間船を装った中国海軍に攻撃されて沈没したらどうするか? 日系企業の工場が占拠され、その保護を外国当局が怠ったら? こうしたリアルな事態を想定した思考訓練こそが求められている。

三浦瑠麗(みうら・るり)
東京大学政策ビジョン研究センター客員研究員、株式会社山猫総合研究所代表。近著に『日本に絶望している人のための政治入門』。