誰もがスピードを求められる時代。求められるままに走り続けてきた人にとって、レールから“降りる”のはとても怖いこと。でも、時には止まりながら進むことで見えてくる景色もある。ゆっくりとでなければ、成し遂げられない仕事もある。
自称不器用で人一倍技術の習得に時間がかかり、ゆっくりと長く、選手人生を歩んできたという鈴木明子さんが、そう教えてくれます。

プロフィギュアスケーター
鈴木明子さん

1985年、愛知県出身。東北福祉大学卒。6歳からスケートを始め、15歳で全日本選手権4位に。10代後半は体調を崩すも2004年に復帰。バンクーバー五輪、ソチ五輪と2大会連続で8位入賞。著書に『壁はきっと越えられる』など。

私は「早熟型」の選手ではなく「晩成型」でした。日本のトップ選手の1人に成長できたのですから、まったく才能がなかったとは思いませんが、不器用でテクニックを習得するのに人の何倍もかかる選手だったんです。

その代わり、私は努力して「乗り越える」ことの素晴らしさを学んでいました。早熟型の子たちがあっという間に新しいテクニックを習得してリンクから上がった後、1人残って何度も何度もトライしたものです。すると、時間はかかりますが、いつかはできるようになるんですね。

頑張れば「課題はいつか乗り越えられる」。それがとてもうれしかったし、やりがいを感じました。「課題はいつか乗り越えられる」と信じられると努力が苦にならない。だから私はスケートと練習が大好きで、本当の意味で「つらい」と思ったことがありません。

ところが、挫折は思いがけないかたちで私に襲いかかりました。18歳の頃、実家を離れ、大学に通いながらスケート生活を送り始めたときです。それまでは母が食事の管理をしてくれていたのですが、1人暮らしでもしっかりやれると母やコーチを安心させたい、と自分にプレッシャーをかけすぎたんでしょう。体重管理のための食事制限をやりすぎ、3カ月で15kgも痩せて、摂食障害になってしまいました。

身長161cmの私が32kg。明らかに痩せすぎです。そうするとどうなると思いますか。スケートをするどころか立っていることもできないんです。心配をかけまいとしたのに、普通の日常生活すらできなくなるなんて。情けなくて自分を責めました。病気になった自分を受け入れられなかった。

さらに私を苦しめたのが、スケートをやめた自分をまったく想像できなかったこと。それを考えると怖くて。初めて心身ともに健康であることがいかに大切かを痛感しました。

晩成型ですが完璧主義者でもある私は、弱い自分を見つめるのが本当に嫌でした。完璧にできない私をみんなが嫌うんじゃないかと心配もしました。だけど、弱い部分を見せても、周囲の人たちは助けてくれたんです。それがわかったら「あ、もっと等身大でいていいんだ」と力みがなくなり、つらいけれど「自分は今、病気」と、やっと受け止められました。

結果的に、母やコーチが無理に急がせずに見守ってくれたおかげもあり、半年という意外に短い期間で、少しずつですが、現役生活に戻れました。

あの時、私は非常に危険な状態でした。スケートがなかったらどう生きていけばいいかまったくわからなかった。幸い短期間で戻れたからいいものの、もし戻れなかったら私はどうなっていたか……。想像するとぞっとします。

けれどあの挫折で「昔の自分に戻りたい」という凝り固まった考えから離れられたのは良かったですね。なぜなら「過去の自分」にとらわれすぎると「今の自分」に向き合えません。絶対に人は過去に戻れません。「ここからどうするか」に向き合うしかない。考え方も経験も体も環境も前とは違っているのだから、現実を見るしかないんです。そのとき、「自分に寄り添う」ことを学びました。ベッドの上でその考えが腹に落ちたとき――。それが私というフィギュアスケーターの「本当のスタート」になったんだと思います。

世界最遅の選手

大技の3回転・3回転連続ジャンプを私が跳べるようになったのは26歳の時です。引退した2013年は29歳でした。29歳まで現役のフィギュアスケート選手でいるのも異例ですが、26歳で3回転・3回転が跳べるようになった選手は、世界広しといえども、きっと私だけでしょう(笑)。2010年のバンクーバーオリンピックで8位という満足できない結果になり、自分には世界で戦うために何が足りないのかを考えて、行きついた答えが3回転・3回転でした。20歳を過ぎて挑戦する技としては無謀です。だけどここで「課題はいつか乗り越えられる」と信じて努力できる私の長所が活きました。

2013年の全日本選手権では、215.18点という高得点で優勝。同大会での優勝は、出場13回目にして初めてのこと。多くのファンに感動を与える演技で、ソチ五輪への切符も手にした。

もう1つ、挫折が私に気づかせてくれたのは「人のために頑張る」と大きな力が湧いてくる、ということ。世界中の人に私のスケートを好きになっていただけたら最高ですが、必ずしもそうはいきません。それを目標にすると果てしなく大きな夢になりすぎて実現不可能。でも、鈴木明子のスケートを好きと言ってくださるファンの方や身近な人に喜んでもらうことならきっとできる。だから、身近な人、好きでいてくれる人に「笑顔になってもらおう」と考えながら滑るようになりました。

私の選手生活はゆっくり長く、途中で止まる駅数が多い普通列車のようでした。普通列車でいろんな景色を見ながら、目的地にたどり着いたというのが実感です。とかくスピードを要求される時代。でも、新幹線のようにあくせくと生きていると、早く到着できますが、景色はあまり見られないですよね。その中で焦りや疲れを感じる人がいたら、自分に寄り添って、ゆっくり行くのもいいですよと伝えたいです。

これからの目標はフィギュアスケートの振付師ですが、おかげさまでさまざまなメディアからお声がけいただき、楽しくて面白い経験ができています。ですから、私らしく、ゆっくりいろんな景色を見ながら、これからも進んでいきたいと思っています。

Skating Life chart(写真=Japan Sports)