沖縄とハワイで経験を積む
私は生まれも育ちも北海道で、旭川医大を出た後に札幌の渓仁会病院、沖縄の県立北部病院などで研修医をして、医学教育を学ぶためにハワイ大学医学部に研究助手として留学してから現在の慈恵医大救急部に来ました。
それぞれの病院で貴重な体験をさせてもらったのですが、特に原点となったのは札幌時代ですね。渓仁会病院は研修医の教育に力を入れていて、3年目の研修医が2年目、2年目の研修医が1年目を見るという「屋根瓦方式」と呼ばれる方式を取り入れていました。
そこでの私はいつも、どうやって研修医の先生を教育したらいいかと悩んでばかりいたんです。何か新しいことを伝えるのが教育だと思っていて、常に彼らの知らないことを言わなきゃとプレッシャーを感じてしまっていた時期でした。実際は1年や2年しか違わないのだから、知識や経験と言っても大して変わらないのに。そこでの悔しい思いが医学教育に興味を持つきっかけだったと思います。その後色々な臨床現場や教育現場を見てみたいという思いから沖縄やハワイに行きました。
沖縄での体験もとても勉強になるものでした。私は広く患者さんを診られる医師になろうと一般内科を選んだのですが、沖縄の北部のような病院の少ない地域では、飛び込んでくる様々な症例の患者さんに科を超えて対応します。
交通事故の重傷患者さんが搬送されてきたなら、外科も内科も麻酔科もみんなが集まって診療に当たる。専門医志向の都会との大きな違いでしょう。そこではずっと病院にいるような生活でしたが忙しくも楽しかったです。研修医も10人弱くらい。50人くらいはいた札幌時代と比べて、どちらかというと実践が多くその環境の違いが育っていく研修医の診療スタイルの違いに直結するなど、医学教育の面でも教えられることが多かったんです。
つまり患者さんの診察にはもちろん知識も重要ですが、経験も必要です。医師にもいろいろなタイプがあって、診察の際にまず考える人もいれば、まず体が動く人もいます。そうした医師の個性が育った環境によって変わってくることを実体験として知ったのは、医学教育に面白さを感じる上で大きかったと思っています。
心も治せる医者になれ
そのなかで私自身の医師としてのあり方を考える時、やっぱり大切にしてきたのは患者さんとの出会いだという気持ちがあります。
日本の国家試験は知識を問うことが重視されるけれど、日々の患者さんとのやり取りは教科書に載っていない大切なことを教えてくれます。そこから多くのことに気付いていくことで、初めて医師は成長していくのだと思うんです。
例えば、北海道時代に余市の小さな病院で研修をしていたときのことでした。入院している患者さんに、特殊な癌でとある大学病院に長く入院されていた方がいました。その方は最先端の治療を止め、余命を家族と過ごすため故郷の病院へ来たんですね。おそらく大学病院では多くの研修医や学生に会っているはずですし、点滴を失敗されたこともあったかと思うんです。それでも研修医の私に「点滴をとってみろ」と、朴訥(ぼくとつ)ながらもとても優しく接してくれた患者さんでした。
その病院でのローテーション期間が終わる際、挨拶に行った私に彼は「病気を治せる医者はいる。でも、君はそれだけではなく、心も治せる医者になれ」と言いました。あまり患者さんの前で泣いてはいけないのですが、涙が出るのを止められませんでした。その方は自分の人生をもって私に何かを教えてくれようとしていたからです。
10年近く医師を続けていると、失われていくものがあります。例えば、人の死に慣れてしまう。あまり悲しくなくなってくるし、心肺停止の患者さんが運ばれてきたとき、最初は本当にショックだったけれど、経験を積むと処置をして助かる人と助からない人がだんだんと分かってくるんです。それで助からないのであれば、家族といかにコミュニケーションをとるかを考えたり。プロフェッショナルな医療者の姿だと思いますが、ときどきそんなふうに死に慣れてしまいすぎることにも不安を覚えます。それが良いことなのか悪いことなのか、私にはまだ分からないから。
私の尊敬している外科医のある先生は、「その人が助かるかどうかよりも、その人のことをいかに思って、いかにその人のために医療をやったかが大事だ」と仰っていたものです。医師がどんなに頑張っても、患者さんが亡くなってしまうことはある。結果だけを見ていては前に進むことができなくなってしまいます。余市の患者さんが教えようとしてくれたのも、そうしたプロセスの大切さだったのでしょうね。それは教科書には載っていない、一人ひとりの医師が自分の体験として学んでいかなければならないことなのだと思います。
女医のワークライフバランス
最後に、私のいる救急部は確かにまだ女医さんが少ない職場ではありますね。そもそも医師という仕事自体、例えば産休をとって現場を一度離れると、とても戻り難いという面があるんです。技術が日進月歩で、1年前の治療がもう古くなっていたり、使っていた薬が変わったりするので、復職の際にどうしても躊躇してしまうわけです。実際、研修医のときに結婚したり産休をとったりしてはいけないのではないか、と悩みを抱えている若手も多いです。
その意味では救急医は、交代の時間が来れば次の人にきっちりと引き継いでいくという仕事の流れがあります。シフト通りに働けるので、本来はむしろ家庭を持つ女性に向いているはずなんです。実際に海外ではドラマにもあるように、女医さんが本当に多い。日本ではまだまだ職場環境に不安なところがあるけれど、慈恵医大でも病院をあげて復職支援をがんばってくれています。学会のテーマとしても女医のワークライフバランスについては盛んに議論されているので、少しずつでも変わっていくことを期待しています。
●手放せない仕事道具
聴診器。これは学生時代に一番最初に買ったものなんです。比較的値段の安いタイプですが、恩師には「大事なのは道具ではない。聴診器と聴診器の間だぞ」と言われてきました。頭を使えということですね。
●ストレス発散法
温泉、旅行
●好きな言葉
苦しいことも嫌なこともかならず将来の糧になる
1981年生まれ。2006年に旭川医大を卒業。06年から札幌渓仁会病院、09年から11年までは沖縄の県立北部病院に勤務する。その後、ハワイ大学医学部シミュレーションセンター研究助手、2013年1月から慈恵医大救急部に勤務。