仕事も家庭も壊れてしまうんじゃないか

警視庁光が丘警察署長 原きよ子さん。警視。現在、警視庁内で唯一の女性署長。これまでで5人目。

私は同じ警察官の夫と結婚し、その頃はちょうど娘が小学校低学年の時期でした。ある特捜本部に従事していたために仕事は激務、朝6時前に家を出て帰るのは夜10時過ぎという生活が続いていたんです。そのせいか子供が精神的に不安定になってしまい、このまま警察官を続けるのか、それとも辞めるのかという選択を迫られるような思いでした。後にも先にも、仕事を辞めなくてはならないかもしれないと思ったのはそのときだけです。

当時は育休がありませんでしたので、産後は4カ月で復帰し、しばらくは時短と保育ママさんを活用し、その後は家の近所の方や交通少年団の役員の方、それから姉にお願いしたりしながら、綱渡りのような子育てを続けてきました。お給料は全て保育料に消えてボーナスだけが辛うじて残るという状態でしたが、それでも仕事を続けられるだけ有り難いという気持ちでいたんです。

ただ、それも特捜本部にいたときは、このままでは仕事も家庭も全てが壊れてしまうんじゃないか、というところまで追い詰められてしまって。自分の頑張りだけならどうにでもなるけれど、自分の努力だけではどうにもならないことがあることを痛感しました。それは「やる気は経験を超える」とばかりに働いていた私にとって、大きな岐路でした。

昇進試験にかけた

警部補の昇進試験が近くあることを知ったのは、そんなふうに感じていた矢先のことでした。警視庁では警部補試験に受かって昇任すれば、職場が別の署に移ることになります。仕事を辞めるか、昇任して捜査第一課を出るか――。本当は刑事を続けたかったけれど、このときだけは昇進試験を受けて環境を変えることに賭けたんです。警察官をどうしても続けたかったから。勉強に使える時間は通勤電車と昼休みのみ。集中して勉強に取り組みました。

結果的に私は女性枠2人のその試験に受かって、渋谷警察署の交通課の係長として異動が決まり、捜査第一課を出ることになったんです。今から振り返れば、あの試験に受かっていなければ警察官を辞めていたかもしれません。そうすると後に捜査第一課に戻って、管理官として捜査を指揮する立場になることもなかった。本当に大きな決断だったと思います。

そうして子育てをしながら働く中で、私が自分に言い聞かせてきたのは、「甘え」と「できないこと」の違いを常に考える、ということでした。

できないことをやろうとすれば無理が生じる。でも、子供がいるからという理由でできることをしなければ、それは甘えになってしまう。いま自分の目の前にある仕事に取り組むとき、それがどちらに当たるのかをいつも問いかけてきたんですね。子育てで周りに迷惑をかけることがあっても、その姿勢を貫いていることによって理解してもらえるようになったと感じています。

キャリアを繋ぐことの大切さ

私が刑事として働いた頃は、女性捜査官が現場になかなか出してもらえなかったり、「女に捜査指揮ができるか」という視線もあったりする時代でした。その中で現場に出してもらえたときが、自分の力を認めてもらえるチャンスでしたから、「毎日が勝負」の気持ちで仕事に臨みました。男の人の2倍、3倍の結果を出さなければ、認められないところがあったのです。

いまは幸いにも――特に昨年の警察改革をめぐる有識者の提言以降――警察全体に女性をしっかり登用しようという流れがあります。毎年のように女性警部が誕生しているし、警部補や警視の数も目に見えて増え、これまで女性がいなかった機動隊の副隊長などにも女性が登用されています。女性側の意識も変わり、やる気にも繋がっています。

一度は辞めなければならないのではと悩んだことのある私にとって、そして今でもライフイベントを経ながら働いている多くの女性たちにとって、キャリアを繋いでいくことは切実なことだと思います。

ただ、どのように環境が変わろうとも、与えられる仕事に懸命に取り組むことが最も大切であることは同じ。結果を出すことによってキャリアを積み重ね、同時に繋いでいく。そのことの中から、仕事に対する使命感や喜びが生まれてくることが、どんな時代も変わらない仕事の本質だと思うからです。

●手放せない仕事道具:携帯電話
署員からの事件報告等に24時間対応するため

●ストレス発散法:ジョギング
署長として、管内治安維持のため外出先も限られているため、近くの公園をジョギングして汗を流すことで、オンとオフの切り替えをしている。

●好きな言葉
人事を尽くして天命を待つ

警視庁光が丘警察署長 原 きよ子(はら・きよこ)
1955年、群馬県出身。75年に警察学校を卒業後、杉並警察署交通課に配属。警視庁捜査第一課、管区警察学校の教官等を経て再び捜査第一課へ。性犯罪捜査を多く担当する。2007年には3度目の捜査第一課で、女性初の管理官として捜査を指揮した。13年の交通捜査課理事官を経て14年より現職。