「ホシを捕まえればいい」は間違い

警視庁光が丘警察署長 原きよ子さん。警視。現在、警視庁内で唯一の女性署長。これまでで5人目。

私がこの警視庁光が丘警察署長に就任したのは今年3月のことでした。

就任時の着任訓示では、警察とは力強さと優しさを兼ね備えたものであるべきで、それを体現していくために一緒に頑張っていこうと署員たちに語りました。それが私の考える警察のあるべき姿だからです。

「力強さ」と「優しさ」の大切さを普段から強調して署員に語っているのは、刑事としての勤務年数が長かったからです。38年のキャリアのおよそ半分。特に私は性犯罪の事案を多く担当してきたので、女性被害者の苦しみや悲しみを現場で聞く立場にありました。

そうした犯罪の被害者の方は、警察へ被害届を出す段階から様々な思いや不安を抱いています。そして公判が始まって判決が出るという過程の中で、その思いは形を変えて続いていくわけです。だからこそ捜査の過程でただ犯人を捕まえればいいというわけではなく、一人ひとりの思いを受け止め、警察に何が求められているか、相手の立場を考える姿勢が強く求められているのです。

確かにかつては「ホシを捕まえればそれでいい」という雰囲気だった時代もありました。でも、力強さに裏打ちされた優しさを以て警察が寄り添うべき人たちがいるということを、私は数々の捜査で身に染みて実感してきました。警察に相談して良かった、警察に被害を届けてよかった、と被害者の方に思ってもらえる対応をしなければ、捜査がどれだけ上手くいっても彼女たちの思いに応えたことにはならないのです。

「ここで泣いていいですか」被害者からの言葉

「家族の前でも、だれの前でも泣けない。だからここで泣いていいですか」と言われ、そっと被害者の方の肩に手をおいたことがあります。また、「あなたがいたから頑張れた」との言葉をもらえたこともあります。

同性だからこそできる、被害者に寄り添いながらの捜査が、被害者の心の支えに繋がっていったとき、仕事にやりがいを感じるのです。この仕事は私の天職だと思っています。

思えば私が捜査第一課にいた平成10年前後は、性犯罪の被害者への対応が変化する過渡期でした。まだ裁判の起訴状では女性の名前が読み上げられている時代で、それがどれほど被害者の方々にとって苦痛だったかを、私たち女性捜査員はよく知っていました。だから、公判の度に名前を秘匿して欲しいという申し入れを続けました。「その必要性は何ですか」と言う検事さんに、「もしあなたの娘さんが被害者だったらどう思いますか」と問い掛けたのです。

その後世論やマスコミでもこの状況が問題視され始め、いまでは公判で被害者の名前が呼ばれることはなくなりました。刑事訴訟法も被害者の思いを受け止める方向に変わってきましたし、当時を考えると隔世の感があります。声を大きくあげて訴えてきて良かったと感じています。あと2年で定年を迎えますが、そうした改革の流れに少しでも力を貸すことができたと思い、自分の警察人生に悔いはないと感じます。

巡査部長時代の決断

それにしても私が警察官になった頃と比べて、警察内部での女性の立場もずいぶんと変わりましたね。

私が警察学校を卒業したのは昭和50年のことでした。その頃の学校は女性と男性が別々で、卒業生も「婦人警察官○期」という数え方。ちなみに私は35期です。卒業配置でも男性が地域課であるのに対して、警視庁では女性は基本的に交通課勤務からキャリアをスタートさせていました。そもそも女性の数自体も今よりずっと少なくて、大きな署の刑事課や生活安全課、少年係に1人ずついるというような割合でした。

なので、私自身も今の立場になるまでのキャリアは、捜査第一課の管理官、管区学校の教官、検視官など「女性初」という場合が多かったんです。昇進試験でも警部補になれるのは年に2人という女性枠の扱いでした。警部にはさすがに枠はありませんでしたが、昇進する女性は数年に1人という感じでしたね。

自分のキャリアをそうした時代を生きた「女性警察官」という視点で振り返るとき、転機となった体験を挙げるとすれば、それは間違いなく、本庁の捜査第一課にいた巡査部長時代の決断です。

警視庁光が丘警察署長 原 きよ子(はら・きよこ)
1955年、群馬県出身。75年に警察学校を卒業後、杉並警察署交通課に配属。警視庁捜査第一課、管区警察学校の教官等を経て再び捜査第一課へ。性犯罪捜査を多く担当する。2007年には3度目の捜査第一課で、女性初の管理官として捜査を指揮した。13年の交通捜査課理事官を経て14年より現職。