朝ドラ「ブラッサム」(NHK)は東京編に入り、実在した作家などをモデルにした人物が登場。朝ドラに詳しいライターの田幸和歌子さんは「芥川龍之介をモチーフにした秋山が主人公の珠を励ましていたが、実際には珠のモデル・宇野千代と話したことはなかったようだ」という――。
芥川竜之介
『芥川竜之介集』(新潮社)昭和2年より 国立国会図書館デジタルコレクション

高良健吾が演じる「めっちゃ文豪」

秋山格之介(高良健吾)「(書いた小説を)こき下ろされて傷つくのは、自分を信じた証拠だろう。自分に信じられない人間にいい小説は書けない。だからね、何があっても自分を手放しちゃいけないよ。いつか君の力になる」
葉野珠(石橋静河)「はい……。ありがとうございます」
「ブラッサム」第5週「狂騒で、東京」

NHK連続テレビ小説「ブラッサム」は主人公の葉野珠(石橋静河)が、結婚や離婚、戦争、破産を経ても書き続ける姿を、作家・宇野千代(1897〜1996年)をモデルに描く。

山口県岩国の女学校を出て小学校の代用教員となるも同僚の男性教師に恋して「ふしだら」の烙印を押され、どこにも雇ってもらえない珠は、第5週で東京帝大に進学する従兄いとこ・保(金子大地)の世話係として上京し、本郷で暮らし始める。

もともと本が好きな珠は、小説の品ぞろえが良い書店ぶくぶく堂に通うように。そこで背の高い男とすれ違うと、店主が興奮気味に、今の客は「羅城門」「蜘蛛の巣」で今いちばんの売れっ子の秋山格之介(高良健吾)だと話す。やがて保の父が入院して仕送りが途絶えると、珠は自分が働くと宣言し、編集者や作家が通う西洋レストラン「悠楽軒」のウエイトレスになる。ある日、本を読みふけっていた客がコーヒーに角砂糖を8つ入れてほしいと頼み、それが秋山だと聞かされた珠は驚き、感動する。

秋山のモチーフは芥川龍之介(1892〜1927年)である。高良健吾も出演発表のコメントで「芥川龍之介をモチーフとした役」と語っている。そのビジュアルは、教科書などでよく知られる芥川のお馴染みの肖像によく似ていると話題になり、ネットでは「完全にご本人」「顔がめっちゃ文豪」「かっこよすぎる」といった絶賛の声が相次いだ。そんな秋山の作品だという「羅城門」と「蜘蛛の巣」は、芥川の代表作『羅生門』(1915年)と『蜘蛛の糸』(1918年)を思わせる。

宇野千代と芥川龍之介の関係は?

宇野千代が愛した男たちを追う本連載の初回に芥川を置くが、先に断っておくと、宇野と芥川は恋人同士ではない。自伝『生きて行く私』と『私の文学的回想記』に出てくる芥川は、同じ店にいた客としての姿と、人づてに聞いた短篇のエピソードが中心である。

宇野は大正6年(1917年)、のちに夫となる従兄の藤村忠が東京帝国大学に進んだのに伴って上京し、やがて小石川駕籠町の女髪結いの2階を借りて暮らした。ドラマで保が担う役回りは、この藤村と重なる。仕送りがあてにならなくなり、本郷3丁目の角にあった西洋料理店・燕楽軒えんらくけんで給仕になる。悠楽軒の名は、この店を思わせる。宇野が勤めたのは、わずか18日間だった。

「中央公論」編集長からのチップ

店は電車通りを挟んで中央公論社の向かいにあった。昼食どきになると、「金時さん」というあだ名の赤ら顔の客が必ず現われ、和服姿で「一言も口を利かないで、猛スピードで食事を済ませ」、食事代のほかに50銭銀貨をテーブルに置いて立ち去る。その客の正体は『中央公論』の名編集長、滝田たきた樗陰ちょいんだが、宇野は夢にも知らず、『生きて行く私』には「ただ、この大きな五十銭玉の銀貨を貰うのだけが目的で、毎日いそいそと燕楽軒へ通って行った」とある。

『私の文学的回想記』は、当時の50銭銀貨を「いまの五千円くらゐにも当りませうか」と振り返り、「袷の着物の裏を剥はがして単衣にし、その単衣を着て店へ出たりしてゐた」と書く。「九円の金が溜まった日に、店をやめて了しまったのです」と宇野は記し、『生きて行く私』によれば、その額は質屋に入れた品物がすべて出せる金額だった。

宇野千代
宇野千代(写真=『女人藝術』1928年11月号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

ウエイトレスをした店で芥川と…

その間、樗陰が連れてくる文士たちの顔を、宇野は目にしている。『生きて行く私』には「あれは芥川龍之介、あれは久米正雄と、その頃の私でも、容易に見当のつく」文士たちが「瀧田樗陰につれられて店へ来ることがあった」とあり、『私の文学的回想記』も「社に用事があって訪ねて来る作家を、滝田樗陰がつれて来る」順序だったとして、芥川、久米、菊池寛、佐藤春夫らの名を挙げる。

芥川は大正7年(1918年)に『地獄変』『蜘蛛の糸』『奉教人の死』と世間を驚かせる傑作を次々に発表し、翌大正8年(1919年)には海軍機関学校を辞めて大阪毎日新聞社の社員待遇となり(当時は新聞社が作家を囲うために社員とした)、田端の自宅で創作に専念した。ドラマ内で「今いちばんの売れっこ先生」と呼ばれる勢いは、そのころの姿に沿っている。宇野が見ていたのは、20代半ばから後半の芥川だった。ただ、宇野の著作では芥川は客の一人にとどまり、言葉を交わした場面は出てこない。

直接の交流があったのは今東光

2人を結ぶ細い糸が、芥川の短篇『葱ねぎ』である。燕楽軒には、「まだ文士と言うほどではない、画家と言うほどでもない今東光」もやって来た。『生きて行く私』によれば、東光(「ブラッサム」で北野秀気が演じる左良太のモデルか)は宇野に目をとめ、「店がはねる時間まで店の外で私を待っていて、駕籠町の家の外まで、私を送ってくれた」という。

作家から、のちに天台宗僧侶になった今東光
作家から、のちに天台宗僧侶になった今東光、中央公論社『週刊公論』昭和35(1960)年3月1日号より[写真=中央公論社『週刊公論』3月1日号(1960)/PD-Japan-organization/Wikimedia Commons]

芥川が宇野をモデルに書いた短編?

『私の文学的回想記』では、東光を「絶世の美少年」と呼び、「恋人同士と言ふほどの、さし迫った間柄ではなかった」と書く。二人は「本郷から小石川、田端にかけた夕暮の道を散歩しました」と宇野は記し、「ただ散歩して、氷屋で金時を食べる。それだけの間柄で」と振り返る。樗陰のあだ名と同じ名の氷である。田端は、芥川が大正3年(1914年)から暮らした町である。あるとき宇野は、八百屋の店先に「一束二銭と書いた葱の束が出ている」のを見つけて駆け寄り、「これを下さい」と言って買った。

芥川の「葱」は大正9年(1920年)1月の『新小説』に載った。ヒロインはカッフェで働く“お君さん”である。

神田神保町辺へんのあるカッフェに、お君きみさんと云う女給仕がいる。年は十五とか十六とか云うが、見た所はもっと大人らしい。何しろ色が白くって、眼が涼しいから、鼻の先が少し上を向いていても、とにかく一通りの美人である。それが髪をまん中から割って、忘れな草の簪かんざしをさして、白いエプロンをかけて、自働ピアノの前に立っている所は、とんと竹久夢二君の画中の人物が抜け出したようだ。
芥川龍之介『葱』(青空文庫)

芥川が東光とのエピソードを聞いたか

宇野は『私の文学的回想記』で「細かい内容は忘れましたが」と断ったうえで、「(デートで男と歩いている最中)ふいに女が、道端の八百屋の店さきに駆け寄って」葱を買い、「男は興醒めしました」と筋を書く。

お君さんは思わずその八百屋の前へ足を止めた。それから呆気あっけにとられている田中君を一人後に残して、鮮やかな瓦斯ガスの光を浴びた青物の中へ足を入れた。しかもついにはその華奢きゃしゃな指を伸べて、一束四銭の札が立っている葱の山を指さすと、「さすらい」の歌でもうたうような声で、
「あれを二束ふたたば下さいな。」と云った。
芥川龍之介『葱』(青空文庫)

『生きて行く私』では「たぶん、これは、東光が芥川に、私のあのとき買った葱の話をして、その話が、この短篇になったものかと思われた」と推測し、『私の文学的回想記』では「芥川が聞いて、小説にしたのだと言ふことですが」と伝聞の形になる。そんなとき走って葱を買いに行きそうな自分を、宇野は「を(お)かしく、またちょっぴり可哀さうにも思った」と書いた。ただ、これらはいずれも宇野の側の証言であり、芥川の側から確かめられたわけではない。

左から菊池寛、芥川龍之介、武藤長三、永見徳太郎
左から菊池寛、芥川龍之介、武藤長三、永見徳太郎。長崎にて、1919年5月撮影(写真=長崎大学附属図書館/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

宇野の作家デビューは数年後

その後の宇野は札幌へ移り、そこで小説を書く。東京から届いた新聞で短篇小説の募集を見て、「たった七枚の短篇だったので、それなら私にも出来さうな気がして応募した」。その『脂粉の顔』が、大正10年(1921年)に『時事新報』の懸賞で一等になった。二等は、のちに宇野の夫となる尾崎士郎である。宇野は後年、この初めて書いた作品を「どぎつい発想の、あと味の悪いもの」と評している。

大正11年(1922年)4月、宇野は中央公論社に送った原稿の返事がないことが気になり、単身で上京して樗陰を訪ねてみると、『墓を発あばく』がすでに5月号に載っていると知らされて、原稿料366円(現在の価値で数百万円)を受け取った。

藤村千代の名前で書いた小説「墓を発く」が掲載された「中央公論」大正11年(1922年)5月号
藤村千代の名前で書いた小説「墓を発く」が掲載された「中央公論」大正11年(1922年)5月号

燕楽軒のウエイトレスは、その向かいの編集部で書き手として迎えられた。宇野は『私の文学的回想記』で、あの18日間に見知った文壇の人々が「後に小説を書かうなどと思ひついたことの、原因であったかと考へます」と振り返っている。その樗陰は大正14年(1925年)に世を去り、芥川の死はその2年後になる。

芥川は妻へ「愛しております」

では、宇野が見た芥川は、どういう人だったのか。

明治25年(1892年)に東京・京橋区入船町で生まれ、生後間もなく母のフクが精神を病んだため、母の兄の家である芥川家に引き取られ、12歳で養子になった。東京帝国大学の英文科で久米や菊池らと同人誌『新思潮』を出し、大正5年(1916年)に発表した『鼻』が夏目漱石に激賞されて文壇に出た。宇野より5歳上で、大正10年(1921年)、宇野が「脂粉の顔」で一等になった年には、新聞社の海外視察員として中国へ渡り、帰国後は体調を崩している。

芥川の文学的才能は誰もが認めるところだったが、その恋は、はじめから家に阻まれた。幼なじみの吉田弥生との結婚を望んだが、芥川家の反対で断念している。大正5年(1916年)8月、8歳下の塚本文に求婚の手紙を送り、同年12月に結婚した。ラブレターには、こんなことも書いていた。

「ワタクシハアナタヲ愛シテ居オリマス コノ上愛セナイ位 愛シテ居リマス ダカラ幸福デス 小鳥ノヤウニ幸福デス」

3人の息子に恵まれるが…

妻との間には、作曲家・指揮者として知られる芥川也寸志(三男)ら、3人の息子が生まれた。宇野が燕楽軒で芥川を見かけたのは大正6年(1917年)で、芥川は文と婚約中だった。結婚はその翌年である。

しかし、結婚後も恋愛沙汰はあり、歌人の秀しげ子との関係に、のちに苦しめられたとされる。大正13年(1924年)の夏には軽井沢で14歳年上の歌人・片山廣子と出会い、心のたかぶりを手紙に書いた。昭和2年(1927年)の春には、文の友人でもあった平松麻素子と帝国ホテルで心中を約束したが、実行には至らなかったとされる。

まだ35歳だったのに…、衝撃の最期

同じ年の年明け、姉ヒサの夫・西川豊の家が火事になり、放火を疑われた西川が自殺する。芥川は義兄の借金の始末と、姉一家の暮らしを背負うことになった。そして、7月24日、芥川も田端の自宅で命を絶った。35歳だった。

その前に『河童』『歯車』を書き、『或阿呆の一生』の原稿を友人の久米正雄に託していた。遺書は妻や叔父、画家の小穴隆一、菊池寛らに宛てたものが残され、久米に宛てた『或旧友へ送る手記』には、自殺の動機として「唯ただぼんやりした不安」と記されていた。女性関係が原因ともささやかれたが、菊池寛は追悼文でこれを否定した。命日は、作品にちなんで「河童忌」と呼ばれている。

宇野にとって芥川は、恋の相手ではなく、燕楽軒の客席から見た文壇の一人だった。それでも宇野は、あの店での印象について「知らぬ間に私の中に、何か植ゑつけられたものがあったか」と書いている。芥川が世を去った昭和2年、宇野は29歳で、すでに作家として歩き出していた。「ブラッサム」で珠が悠楽軒で秋山を前にする場面は、その植えつけの始まりを描くことになるのだろう。

芥川龍之介の死去を伝える東京朝日新聞の記事、昭和2(1927)年7月25日付
芥川龍之介の死去を伝える東京朝日新聞の記事、昭和2(1927)年7月25日付

・参考資料
宇野千代『生きて行く私』『私の文学的回想記』、芥川龍之介『葱』『或旧友へ送る手記』、文京区「宇野千代」(文京ゆかりの人物紹介)、北区文化振興財団・田端文士村記念館資料、今日の馬込文学「飛び立つ女たち(大正11年4月12日、宇野千代、上京する)」、JBpress「文豪たちの人生の岐路(第16回)芥川龍之介:前編」、NHK「ブラッサム」公式サイトおよび各話あらすじ