もともとは子どもの頃から理系志向
もともと私は理系志望の人間でした。今でも数字や数式に憧れを感じます。「関数でものを考える」といったことにとても興味があるんです。あまり他人と関わらずに、何か一つの研究テーマを黙々と追究するような人生だったら、もっと幸せだったんじゃないかと思うこともあります。そもそも人前で喋るのが苦手ですし。結果的にICCの所長などという立場になってしまって、「ものすごく不得意な方向に進んじゃったな……」と内心では思っています。
小学生のころは、算数や理科が好きでした。特に理科の実験が好きで、家に帰ったあとも、ものの比重を一人で測ったりしていました。「誤差が出ないようにするにはどうしたらいいのか」と自分なりに試行錯誤していたのを覚えています。
父親も理系、結婚しろとは言われなかった
私の理系志向には、父の影響があったと思います。父方の親族は理系の研究職の人が多くて、父もそうでした。戦後すぐのころ、名古屋大学を卒業して、企業の研究職として働いていた。ただ、途中で不本意な営業職に異動させられてしまったんです。
父は戦争で大学に入るのが4遅れたそうで、「だから俺は出世できないんだ」が口癖でした。だからといって、それを気にする様子はなく、子どもに対しても「出世なんかどうでもいい。しかし、どんな世の中になっても生きていかねばならない。要は上でもない、下でもない真ん中にいれば、上と下がひっくり返っても真ん中にいられる。やりたいことをやればよいが、資格があるほうがよい」という態度でした。
母も同じで、いい人を見つけて結婚しなさい、それが女の幸せだ、みたいなことは言わなかった。母は当時では珍しい短大卒で教師の資格も取っていました。本当は教師の仕事をしたかったけれど、婚期を逃すとか言われて親に止められた過去があったようです。娘には同じ思いをしてほしくなかったのかもしれません。
名古屋の進学校へ、女子は5人に1人
進学校として知られる愛知県立旭丘高校に私が入学したときは、近所の人から「なんで?」と聞かれました。女が進学校に行っても意味がないだろうというわけです。私は、そういう他人の声を全然気にしませんでした。いや、むしろ、「みんなと同じように行動するのが安心」みたいな考え方が大嫌いだった。「こうするべき」と言われると、かえって反発したくなる。
旭丘高校に入ってみると、1クラス45人で、女子は10人。これでも「今年は女子がすごく多い」と言われたものです。
自由な校風で高校生活を満喫
それはともかく、旭丘高校は自由な校風で、本当に楽しいところでした。制服はありましたが、着るも着ないも自由。私もあまり着ていませんでした。ただし、生徒の間で「高校生らしく、あまり派手な格好はしない」という申し合わせはありました。校則で縛るのではなく、生徒が自主的に物事を考えて決定する。先生は生徒が決めたことを尊重する。そんな文化のある学校でした。ちなみに、高校の先生たちから「女だから」うんぬんと言われたことは一度もありません(そもそも、生徒の名簿も男女関係なく、あいうえお順でした)。
今から思うと、ずいぶん自由奔放なことをやっていました。たとえば物理の授業の時間に、生徒が「先生、今日は野球をやりましょう」なんて提案をするんです。
「授業が遅れちゃうけどいいの?」
「大丈夫です。自分で勉強しておきますから」
みんな自信があるわけです。物理の先生もその気になって、「僕がこの角度でバットを振るから、このあたりにボールを投げてくれ。そうすれば、この方向に打球が飛ぶはずだ」とか言い始める。実際に先生の言ったとおりにボールが飛んで、みんなで「ワーッ」と盛り上がったり。そんなことが日常茶飯事でした。
日本人は質問をしないとよく言われますが、旭丘高校は違いました。自由闊達で向学心旺盛。授業中に「はい、先生!」と挙手する人がすごく多かった。「先生はこう言いましたけど、おかしくないですか?」なんて指摘する人までいるんです。そして、何がどうおかしいのか滔々と説明する。先生は「そうか、最初は何を言うんだと思ったが、なるほどそうだな、お前のほうが正しいかも」とあっさり負けを認めることさえありました。
先生と生徒が対等に話をしていた
先生がある女子生徒に「○○さんは数学が得意だったよね。これ解いてみない?」と投げかけてくることもあった。指名された生徒は、黒板を使ってサーッと解いてしまう。先生は、「さすが。僕は解けなかった」とか言って笑っているんです。また、別の男子生徒は、いきなり授業中に手を挙げて、「先生、公式なんか覚える必要ないですよ。この公式を覚えなくても、こうやって解いていけば、ほら、すぐに答えが出ます。数学を記憶する必要はないと思います」なんて言う。確かにそうだ、と舌を巻きました。
壊れた塀から登校していたのも、忘れられない思い出です。学校を囲む塀がところどころ壊れていて、隙間があったんですね。みんな校門を通らずに、そこから出入りしていた。面白いからという理由で。なんだか型にはまらずパワフル。すごい学校でした。
化学や物理が得意だったが、将来を考え…
高校生になっても、相変わらず理系の科目は好きでした。得意だったのは化学、物理(の一部)、生物。できれば研究者になりたいという夢もあった。でも、理系の大学に進むことには躊躇していました。進学したところで、当時、女性が研究者になるのは簡単ではなかったからです。特に理系はそうでした。現実的な将来像は、高校の先生あたり。しかし、教師になりたいわけではない。「研究者になれないなら文系でもいいかな」と思うようになった。
両親からは、「ずっと仕事を続けていきたいなら、何か資格がないと厳しいよ」と言われていました。女性が企業で活躍するのは難しかった時代です。自分なりのキャリアを築こうと思ったら、資格を取るしかなかった。父は最初、医者がいいんじゃないかと言っていましたが、医者は手術などをするのが怖いから私はイヤでした。小学校でフナを解剖したときに、きゃあと悲鳴を上げて先生に怒られたくらいでしたから。そう伝えると、父は何も知らないくせに、「じゃあ、弁護士がいいんじゃないか」と言い始めた。それで、「とりあえず、法学部に行こうか」と。本当にそれだけの理由でした。どんな学部なのかもよく知らないまま、法学部志望ということになったんです。
実家を離れ東京大学へ進んだワケ
いちおう一定の成績を保っていたので、どの大学でも狙うことができそうでした。「さて、どこにしようか」と考えたときに、真っ先に消えたのは名古屋大学。大学そのものについてはよく知らなかったのですが、父とは違う大学に進みたかったし、とにかく名古屋を離れたかった。旭丘高校からは京都大学に進む人が多いのですが、京都も名古屋から近いのでイヤだなと。それで東京大学を目指すことにしたわけです。
東大がどんなところなのか見てみたいという好奇心もありました。「日本のトップの人たちが集まるっていうけど、どんな人たちなの?」って。法学部とは何なのかもわかっていないくせに、そういう興味だけは持っていたんです。
エリート意識の高い東大生に違和感も
1975年春、無事に試験に合格して、東京大学文科一類(主に法学部へ進学)に入学しました。お恥ずかしいことに、このときの私は、法学部を卒業すれば自動的に弁護士になれると思い込んでいた。世間知らずにもほどがありますね。
実際に東大に入ってみると、「想像していたのとちょっと違うな」と感じました。当時の私の東大生観は、みんな自分をエリートだと思っていて、人生順風満帆と思っている、というもので(後年、それは一種のステレオタイプな見方で、大きな間違いだと気づきましたけど)、官僚志向の人が多いとも感じていました。私にとっては、旭丘高校の仲間のほうがバラエティに富んでいて、また人間臭くて魅力的な人たちに思えました。
「法律とは何か」腹落ちしないまま
しかも、いざ法律を勉強してみると、どうも肌に合わない。法律の世界というのは、すべてを言葉で表さなくてはならないんですけれども、これが私は不得意なんです。数式なら良いけど、妙に理屈を並べて執拗にまぎれのない言葉で示すというのは(これが法的思考というのでしょうが)あまりうまくできないので、苦労しました。特に刑法や刑事訴訟法なんかは性に合わないと思った。のちに検察官や裁判官となる人間にあるまじき話ですが……。最初の2年くらいは、「法律とは何ぞや」ということがいまひとつ理解できないまま、停滞していたような気がします。
3年生になると、そろそろ卒業後の進路を考えなくてはなりません。私は、司法試験と公務員試験にチャレンジしようと決意しました。まだ男女雇用機会均等法が施行される前で、女性をまともに雇ってくれる企業はごく少なかったから、他に方法がなかった。両親の言う通りでしたね。私も、このころになると、司法試験に合格しなければ弁護士になれないことはよく理解していました。司法試験がとても難しい試験で、合格率はせいぜい2、3パーセントくらいであることもわかっていましたので、ようやくエンジンがかかったように勉強するようになりました。
合格率3%の司法試験は難しかった
4年生のときは司法試験だけを受けました。この年は、当時の短答式試験は通過したものの、論文式試験は不合格。勉強し始めたばかりだった商法の部分が敗因と思われます。
大学に籍を残して、翌年、改めて司法試験と、国家公務員の上級試験(当時)を受験。今度はどちらも合格することができました。
