朝ドラ「ブラッサム」(NHK)のモデルとして再注目されている作家の宇野千代(1897~1996年)。宇野の人生について調べた平山亜佐子さんは「98歳まで長生きした千代は老境に入ってから自身の父を肯定的に書いたが、初期の小説には暴君な父親の歪んだ言動がリアルに描かれている」という――。

80代で書いた自伝では肯定的だが…

(父は)「おどれ、こんとに暗うなるまで、よう男と歩いとったな」と言ったかと思うと、いきなり、手を上げて私の頬げたを打った。また打った。
(中略)
私を打ったりする父を、私は恨んだりしただろうか。理由は分からないながら、私は父を恨むどころか、父の言葉をそのまま承認した。
宇野千代『生きて行く私』

宇野千代には、ベストセラーになった『生きて行く私』をはじめ、いくつもの自伝がある。そこに描かれる父は謎めいた「奇人」として、継母リュウとの暮らしは温かく慕わしいものとして語られ、ともすればふんわりとした幸福な空気すら漂う。

だが、千代が若い頃に書いた短編には、まったく違う顔が現れる。父に虐げられたときの葛藤、涙もろい母に対する苛立ち――。自伝で語られなかった心情は、初期短編の中に赤裸々に書き留められていた。

まずは、史実から記していこう。

千代は1897(明治30)年11月28日、山口県玖珂郡横山村(現岩国市川西)に生まれた。父の俊次は裕福な酒造業の次男で、母のトモは千代が1歳半の時に肺結核で亡くなっている。千代に母の記憶はないが、母の床の周囲を灯のついた赤い提灯を持ってぐるぐる歩き回り、その姿を見た母が「この子のことが気にかかってのう、死んでも死に切れんでよ」と涙を流した逸話を聞いたことがあるという。母が亡くなると、千代はしばらく父の実家の造り酒屋に預けられたが、当時の千代にはこれも記憶がない。

宇野千代の実家、山口県岩国市、2013年撮影
宇野千代の実家、山口県岩国市、2013年撮影(写真=Heartoftheworld/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

父は絶対的な暴君、継母は後妻

家に戻った千代は、父に「今日から、これがお前のお母〈かか〉じゃ」と佐伯リュウを紹介された。母が亡くなった翌年、父が後妻に迎えたリュウはわずか17歳だった。千代は色の白いきれいな人だと思い、実母のように慕った。

それから5人の弟妹が次々に生まれたが、継母は何事においても千代を優先した。「姉さまがお食べてから」「姉さまがお這入はいりてから」と下の子たちを待たせた。おかげで千代は弟妹たちとも仲が良かった。これだけ見れば幸せな家庭といえるが、この家の大きなガンは父の俊次だった。

父について千代は「バルザックかドストエフスキーの小説の中にしか出てこないような一種の奇人乃至ないし狂人」と書くが、美化し過ぎているきらいがある。父は一言で言えば、家庭内で絶大な権力を振るう暴君で、何者も止めることができなかった。

父は博打好き、生活は苦しかった

実家は大きな造り酒屋だったが、千代の家は貧しかった。父が働いたことがなかったからだ。実家の金で放蕩ざんまいを続け、家を買ったのは40歳を過ぎてからだった。投機のために馬やウグイスを飼った。博打ばくちで逮捕されたこともある。色街ではひょうきん者で通っていたというが、家ではニコリともしなかった。家計は、実家を取り仕切る長男(父の兄)が月に2回届ける金でどうにか回っていた。

千代は学校でちびた鉛筆を使った。雨や雪の日は藁草履わらぞうりを脱ぎ、裸足で歩いた。草履を濡らすと傷むと父に言われていたからだ。

藁草履
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毎日午後になると「今日の相場を聞いてこい」と言いつけられた。相場が何かも知らないまま、教えられた家へ行き、紙を受け取って帰る。夜遅く、酒を買いに行かされることもあった。煮売屋で酒を買った千代は必ず、今日の肴さかなを記憶した。父に報告しなければならず、再び買いに行かされることもあるからだ。

初期の小説に書いた父の残忍さ

それでいて父は、自分の用事以外で家族が外に出るのを嫌った。猿芝居などの流しの芸人が来ても、この家の子どもだけは見に行けなかった。少しでも楽しそうにすることは、許されなかったのだ。だが、毎年春に千代が成績優秀者として学校から褒美ほうびをもらうときの父は違った。一張羅を着た千代を連れ、馴染みの料理屋や置屋、道具屋を連れ歩いては「今日は、こいつが学校へ呼ばれての」と自慢した。褒められようが、貶けなされようが、家族にとって父の意思は「雲が出て雨が降るのと同じように」――つまり抗いようのない自然現象として受け入れられていた、とある。

だが、若い頃に書いた短編には、父の残忍さがもっと露骨に描かれている。

ここに注目したのが、文芸評論家の尾形明子である。

尾形は『宇野千代』のなかで、千代が過去の出来事を、その時々の自分にとって意味のあるかたちに組み替えて語っていったのではないか、と示唆している。

30歳ごろの宇野千代
30歳ごろの宇野千代〔写真=『女人藝術』1928年11月号(女人藝術社)/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons〕

「機能不全家族」の親子だった?

たとえば1925(大正14)年の「三千代の嫁入り」では、父に手足を縛られ、逆さ吊りにされる少女が登場する。酒を飲みながら娘の苦しむ様子を眺める父は「奇人」では済まされないほど異様である。だが少女は父を憎むのではなく、どう答えれば正解だったのか長い間悩む。機能不全家族に育った子どもの典型的な態度である。

同じころに書かれた「ランプ明るく」(1925年)には、母がランプの煤すすを掃除するだけで父が「吟味ぎんみる(人前で取り繕う)な!」と怒鳴るため、暗いままにさせられる家庭が描かれる。

これらは小説作品であり、実体験そのままとは限らない。だが、そこに描かれた父の像はとてもリアルなうえ、後年の自伝に登場する父とかなり違っていることは確かだ。

やがて病に伏した父は、亡くなる3日前の大雪の日に突然外に飛び出して刃物を振り回す。裾から汚物を垂れ流している姿を見た千代は痛ましく思い、自分の人生をやり直したいという父の最後の叫びだったと考える。どんなに虐げられても父を理解したいと思う千代のアンビバレンツな心が突き刺さるシーンだ。

「往来」(1925年)では、父に「俺が死んだら、母は貴様のために学校の月謝を出し惜しむだろう。貴様は孤独になるだろう」と呪いをかけられる。実際には、父の死後にもそのようなことは起こらなかったが、娘と継母ままははの仲睦なかむつまじさはしょせん作りものだと考える父の歪んだ心が滲み出ている。

『新選宇野千代集』(改造社)昭和4年
『新選宇野千代集』(改造社)昭和4年(画像=国立国会図書館デジタルコレクション)

義理の母とは仲良しだったが…

では、継母リュウと千代は肝胆相照かんたんあいてらす仲だったのかといえば、こちらはさらに複雑だった。

「母よ」(1928年)では、リュウが千代を優先するたびにかえって継娘であることを痛感させられたと書いている。特別扱いされることが千代を大人にしたというのだ。同じように父に苦しめられている母だが、子ども時代を歪められた千代とは違い、素朴で無邪気な性質なのだろう。彼女に対する千代の嫉妬すら感じさせる。

「骸骨と母」(1925年)には、久しぶりに会った母の涙もろさを見て「私の子供ででもあるかのように」覚え、努力しようとしない彼女に苛立ちを感じる。「疲れて居るもの、気持ちの疲れて居るもの、それを見る事は、私の中に隠れて居た或ある安易な、悪い心と結びつき私をそこへ這いつくばらせるような気がする」というくだりは暗示的だ。

老年に入り、辛い過去を塗り替えた

後年、千代が「幸福」や「夢」と名のつく多くの著書を生み出したのは、「悪い心」を追い出すために過去を整理したのではなかったか。

恐ろしい父親は文学的な「奇人」として語り直され、苦しかった家庭生活には愛情や懐かしさが加えられていったのではないか。

宇野千代が尾崎士郎と結婚していた時代(1926~30年)の写真
宇野千代が尾崎士郎と結婚していた時代(1926~30年)の写真〔写真=『決定版 昭和史 第4巻』(毎日新聞社)/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons〕

『宇野千代全集 第1巻』(1977年)の「あとがき」で千代は、昔の作品について「こんな小説を誰が書いたか、と作者自身にとっても記憶にないものばかりだと言ったら、信じる人があるだろうか。しかし、私と言う作家が、どう言う道を辿って、脱皮し、脱皮し、そして到達したその道筋が眼に見えるようなのも、思えば恐しい経路である」と書いている。

若き日の短編に込められた怒りや孤独、屈辱は、宇野千代という作家の原点である。

その経験があったからこそ、千代はものを書くようになった。

苦しみを文字に変えることで、心を守っていたのだ。

幾度もの脱皮を重ねた道筋を、これから少しずつ辿っていきたい。

・参考文献
宇野千代『生きて行く私』
宇野千代『新選宇野千代集』改造社、1929年
宇野千代『或る一人の女の話・刺す』講談社文芸文庫、2006年
宇野千代『私の文学的回想記』中央公論社、1972年
宇野千代「あとがき」『宇野千代全集 第1巻』中央公論社、1977年
宇野千代 渡辺正彦編『宇野千代』日本図書センター、1995年
尾形明子『宇野千代』新典社、2014年
神埜努『宇野千代の札幌時代 女流作家の誕生』共同文化社、2000年
宇野千代、小林庸浩ほか『宇野千代 女の一生』新潮社、2013年