上皇さま「ご葬儀簡素化」の願い
去る9月2日、宮内庁が上皇陛下のご意向をうけて、将来のご葬儀(大喪)の規模を大幅に縮小する方向で検討を進めていることが、報じられた。この変更は、ご葬儀にともなう国民生活への影響をできるだけ少なくしたいという、上皇陛下のお気持ちによる。
今のところ、皇室行事である「葬場殿の儀」は、昭和天皇の時に使った新宿御苑(東京都新宿区)ではなく、皇居・宮殿で行うことが考えられている。参列者の数も、前例では1万人規模だったのを縮小して、4分の1の2500人程度にするという。
振り返ると、上皇陛下のご退位を可能にした皇室典範特例法が制定される大きなきっかけになった、平成28年(2016年)8月8日のビデオメッセージ「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」の中に、すでに天皇崩御にともなう一連の行事が周囲への大きな負担になっていることへの問題意識を示しておられた。
陵の見直しと火葬
ビデオメッセージより前の平成25年(2013年)11月14日、宮内庁は「今後の御陵及び御喪儀のあり方についての天皇皇后両陛下のお気持ち」と「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」を発表している。前者の「お気持ち」には以下の表現が見られた。
「御陵の簡素化という観点も含め、火葬によって行うことが望ましいというお気持ち」
陵(天皇や皇后などのお墓)の縮小と共に、それまで天皇、皇后は土葬だったのを、火葬に改める望みが示された。
「葬場殿の儀」の場所については、同じく前者に以下のように記していた。
「暑さや寒さに加え、集中豪雨や竜巻などの可能性も充分考慮し、出席者の安全確保が出来る場所を、皇太子殿下(今の天皇陛下)や秋篠宮殿下など殿下方のご意見も伺いつつ選定してほしい」
宮殿なら懸念をクリア
葬場殿の儀の場所が今回の報道にあった宮殿であれば、「お気持ち」で掲げた懸念事項をすべてクリアできる。
おそらく、天皇陛下や秋篠宮殿下もすでに同意されていることが、拝察できる。
「お気持ち」発表の翌年、平成26年(2014年)春から平成末にかけて、上皇陛下、天皇陛下、秋篠宮殿下による三者会談がほぼ毎月、宮内庁長官も陪席して行われた。そこでは、最も重要な皇位継承をはじめ、ご葬儀のあり方などのテーマについて、お三方の合意が図られたはずだ。
退位と火葬のつながり
ここで見逃せないのは、これから検討が進む葬儀の簡素化と、先に発表があった陵の縮小、火葬の復活が、すでに行われたご退位と体系的につながっているという事実だ。
たとえば上皇のご葬儀であれば、大規模だった「天皇のご葬儀」の前例に縛られる程度が軽くなる。その結果、簡素化に取り組みやすくなるという点で、ご退位とご葬儀の簡素化はつながる。
退位特例法では、上皇も「喪儀及び陵墓については、天皇の例による」(第3条第3項)とする。だが、その解釈と運用については当然、当事者のお気持ちが尊重されるはずだ。
火葬についても、前近代において、飛鳥時代の持統天皇から火葬が始まり、江戸時代の後光明天皇のときに土葬が復活するまで、もちろん例外はあっても「天皇として崩御された場合は土葬」「上皇として崩御された場合は火葬」という大まかな慣行があった。だから、ご退位は火葬の復活とうまく合致する。
ちなみに前近代では、皇位の継承は明治の皇室典範以降、除外されてしまった「退位」(譲位)によるのが標準的なあり方だった。
「簡素な葬儀」という伝統
そもそも、飛鳥時代に宮中で蘇我入鹿が殺害され、それが蘇我本宗家の滅亡を導くという事件(乙巳の変、645年)にともなって、皇極天皇がハプニング的に退位を余儀なくされた事例を除き、天皇が自らの意思によって退位されたのは、持統天皇の時がはじめだった。その持統天皇が、皇位継承者としてはじめて火葬されている。こうした事実からも、「退位」と「火葬」はその起こりからつながっている。
しかも、持統天皇は崩御に際して、手厚い葬儀(厚葬)ではなく、簡素な葬儀(薄葬)を命じる遺詔をのこされた(『続日本紀』大宝2年[702年]12月22日条)。
上皇陛下が熟慮の末に打ち出された退位→火葬→薄葬(葬儀の簡素化)は、その歴史的な起源からすでに深くつながっていた。
とくに薄葬は、平安時代以降、天皇または上皇が崩御に際して、葬儀や関連行事などの簡素化を望む遺言をのこし、それを次の天皇に報告するという手順(遺詔の奏)が、「恒例の儀式として定着」していた(岡田荘司氏「天皇葬喪の沿革」『歴史手帖』平成元年[1989年]2月号)。つまり退位→火葬→薄葬こそ、前近代では伝統的なあり方だったと言える。
近代の葬儀、陵の原点は孝明天皇
前近代に受け継がれた“薄葬の伝統”が大きく転換したのは幕末だった。ペリーの来航などによる深刻な危機感から、ナショナリズムが高揚した時代だ。明治天皇の父親だった孝明天皇のご葬儀と陵の造営にあたり、大きな変革があった(武田秀章氏『維新期天皇祭祀の研究』平成8年[1996年]、大明堂)。
後光明天皇の時から「土葬」が採用されながらも、それ以前に長年にわたって火葬が行われてきたことから、形式上は火葬に見立てた作法を踏襲していた。それを廃して、名実ともに火葬に切り替えた。
また長く仏教式のご葬儀が営まれ、南北朝時代の後光厳天皇から500年近くも京都の泉涌寺が葬場とされていた。ところが孝明天皇のご葬儀(慶応3年[1867年]1月27日、28日)では、同寺に立ち寄るものの仏教的要素は空洞化し、鳥居をかまえた陵前での神道式の祭典が中心となった。
陵自体も、久しく石塔形式など簡素化していたが、三段築造の円丘墳が築かれた(明治天皇からは「上円下方」形式)。
孝明天皇のご葬儀や陵などの変革の歴史的意義は、「奈良・平安期以来の朝廷の『薄葬』の伝統の否定」(武田氏前出)とされている。
「手厚い葬儀」へ
その後、孝明天皇の正妻だった英照皇太后のご葬儀を経て、明治天皇のご葬儀で大がかりな近代のご葬儀の標準形が整った(大正元年[1912年]9月13〜15日)。
青山練兵場(今の明治神宮外苑あたり)に設けられた葬場の敷地は10万坪、76棟もの建物が仮設され、建坪だけで約4000坪という広さだった。当時は今の人口の半分以下の5000万人ほどだったのに葬列は約2万人、長さは5キロにも及んだ。
お棺(霊柩)を乗せたお車が5頭の牛にひかれた。皇居(宮城)を出発した先頭が2時間あまりをかけて青山の葬場に到着した頃、最後尾はまだ皇居を出ていなかったという。
その後、天皇のご葬儀などについて規定した「皇室喪儀令」が、大正天皇のご病状が悪化した大正15年(1926年)10月21日に公布された。その規定は明治天皇のご葬儀を踏襲していた。
大正天皇のご葬儀はこれに基づいて行われた(昭和2年[1927年]2月7日、8日)。葬場は新宿御苑。前近代の薄葬の伝統とは正反対の手厚い葬儀の形が確立した。
昭和天皇のご葬儀もほぼ前例踏襲
皇室喪儀令はほかの「皇室令」と共に、昭和22年(1947年)の日本国憲法の施行によって法的には無効になった。なので、法的根拠に基づいて天皇のご葬儀が行われたのは、大正天皇の時が最初で最後だった。
しかし、新しい規定が定められるまでは「従前の例に準じて」処理するとの通牒(昭和22年[1947年]5月3日、宮内府長官官房文書課)が出されている。昭和天皇のご葬儀(平成元年[1989年]2月24日)もこれによって、憲法との整合性を図りながら、なるべく前例に近い形で行われた。
上皇陛下はそれを変更しようとされている。方向性としては、ご自身がこれまで追求してこられた「国民に寄り添う」皇室像をより前に進めるために、現代にふさわしい形で薄葬の伝統への“回帰”を願っておられるように見える。
例外だった「武装せる天皇制」
明治以降のわが国は、弱肉強食の帝国主義時代の国際社会の中で、何としても富国強兵をなしとげ、欧米列強から押し付けられた不平等条約を改正し、植民地化を免れて1人前の独立国家を建設しなければならなかった。天皇・皇室は、そのような国家の“機軸”であるべく期待された。こうした時代の天皇・皇室のあり方を、比喩として例外的な「武装せる天皇制」と呼んだ文学者もいた(林房雄氏)。
天皇が憲法上、国政を司る「統治権」と軍隊を指揮する「統帥権」を兼ね備え、国家元首として卓越した権威を身におびる、というあり方だ。
もちろん、当時の危機的な時代背景を考えると、いかめしく“武装した”天皇・皇室のあり方を安易に批判することはできない。また昭和戦後以降、憲法も皇室典範も変わり、そうした天皇・皇室のあり方に大きな変動があったことも事実だ。
しかし、時代が変わったのに、さほど変化しなかった部分もある。上皇陛下が提起されたご葬儀のあり方は、まさに「武装せる天皇制」時代の“厚葬プラス土葬”の方式が、ほとんどそのまま惰性的に踏襲されようとしていた。前近代の伝統だったご退位も、上皇陛下ご自身によるビデオメッセージがなければ、当時の安倍晋三政権のもとでは実現していなかった可能性が高い。
上皇陛下が退位を望まれたのは、「国民に寄り添う」という象徴天皇の務めが高齢化によって十分に果たせなくなる前に、若い後継者にそれを受け継ぐことが主な目的だった。
男系男子は「武装せる天皇制」時代の遺物
政界の一部には今もなお、明治から敗戦まで存続した「武装せる天皇制」のもとでの天皇・皇室のあり方こそが理想形、と見る思考法があるのではないだろうか。実際に、昭和天皇のご葬儀の時はもちろん霊柩を自動車にお乗せしたが、あきれたことに「前例にしたがって牛にひかせろ」と要求する右派の国会議員もいたようだ。
ここで是非とも考え合わせなければならないことがある。皇位継承資格を「男系男子」だけに縛る現行皇室典範のルールも、まさに「武装せる天皇制」時代の遺物であるという事実だ。
このルールは明治の皇室典範で初めて採用された。当時は側室制度があり、正妻以外の女性が生んだ男子にも皇位継承資格が認められていた。なので、それなりに持続可能性があった。
しかし、今や条件がまったく異なる。一夫一婦制(皇室典範第6条)で少子化が進む。にもかかわらず政府・与党などは、伝統でもない時代錯誤な「男系男子」限定という欠陥ルールを、惰性的に維持しようとしている。
「武装せる天皇制」時代の遺物と言うべき葬儀や陵のあり方を、前近代の伝統を顧みつつ理性的に乗り越えようとされている皇室の方々が、とりわけ重要な皇位継承ルールの深刻な欠陥に、危機感を抱かれないはずがない。
直系の「愛子天皇」で合意
かねて上皇陛下が、「ゆくゆくは愛子(内親王)に天皇になってほしい」という直系継承を願うお気持ちを、平成時代に周囲に語っておられた事実が知られている(奥野修司氏『天皇の憂鬱』平成31年[2019年]、新潮新書)。これについて先ごろ、この事実を紹介した奥野氏自身が追加の証言をされている(『週刊新潮』9月17日号)。
「記述した内容は16年(平成28年)、上皇さまと極めて近しい立場にある関係者から聞いたものです。それ以外にも複数の人物が、ご在位中の上皇さまから同じニュアンスのお話を伺っていました」と。
天皇陛下も小泉純一郎内閣当時、政府が女性天皇・女系天皇を認める制度改正に踏み出そうとした場面で、敬宮(愛子内親王)殿下のご即位の可能性を踏まえて「慎重に進めてほしい」と望まれていた。秋篠宮殿下も「その方向でよい」と賛同されたことが伝わる(「読売新聞」7月18日付)。
高貴な精神を受け継ぐ直系継承
秋篠宮殿下は、悠仁親王殿下がお生まれになり時代が令和にうつっても、皇室の中枢である内廷に加わることを控えて「皇太子」類似の称号も辞退され、傍系の表示である「秋篠宮」という宮号を自ら維持された。さらに悠仁殿下の皇位継承を予想する記者の質問には、これまで無回答を通されている。
これらはすべて、天皇皇后両陛下にお子さまがおられる以上、直系による継承をめざすのが筋だ、というお考えを秋篠宮殿下ご自身がお持ちでなければ説明できない。
皇室が大切にしておられる「国民と苦楽を共にする」「人々の気持ちに寄り添う」という高貴な精神・気風を次代にしっかり受け継ぐためには、皇位が“天皇からその子”へと直系で継承されることが最も望ましい。
天皇陛下、上皇陛下、秋篠宮殿下にとっては、直系の「愛子天皇」を妨げ、皇位継承の将来を行き詰まらせる“男系男子”限定の欠陥ルールに固執することなど、厚葬や土葬に執着する以上に、あってはならないことだろう。