紀子妃「還暦回答」への違和感
秋篠宮家の紀子妃は60歳の還暦を迎えた。9月11日には、宮内庁から「秋篠宮皇嗣妃殿下お誕生日に際し(令和8年)」という宮内記者会からの質問に対する紀子妃の回答が公表された。
ところが、そこには大きな問題があった。秋篠宮家では、次世代の天皇と目される悠仁親王に十分な「帝王学」を授けていないのではないかと言われてきたが、それがまさに証明される内容になっているからである。
回答は1万字を超える長文である。冒頭では日本各地の災害の被災者に対する見舞いの言葉が述べられ、1990年に秋篠宮と結婚して以来のことが詳しくつづられていた。この一年で印象に残った出来事についても、ほぼすべてではないかと思われるほど、個々の出来事について言及されていた。
佳子内親王や悠仁親王とともに親子で行ったことについても述べられていたが、その際には、眞子元内親王についてもふれられていた。「先月パラグアイを訪れた際、日本人移住80年にあたり10年前に娘の眞子がパラグアイを訪れたときの足跡にふれる機会が度々ありました」というのだ。
意外なほど短い改正皇室典範への回答
その足跡とは、移住地のイグアスにある日本人会館前に眞子元内親王が記念に植えた桜の木などである。現地の日本人会の人からは、「眞子に会って嬉しかった、懐かしい、と当時の思い出を語ってくださったことも心に」残ったという。今はインターネットが発達しており、テレビ電話で会話する機会もあるだろうが、眞子元内親王がアメリカに赴いて以来、直接顔を合わせたことは少なくとも公には確認されていない。
このパラグアイでのエピソードが紹介されたところには、遠く離れたところで生活する娘に対する母親としての深い愛情が示されている。
こうした機会においては、当然、改正皇室典範のことについても記者から質問が出される。改正についてどのように受け止め、また、それを子どもたちにどのように伝えているかを問われた紀子妃は、次のように答えている。
「皇室典範が改正されたことを事実として受け止めております。佳子や悠仁には改正されたことを話しました。将来にわたって子どもたちの幸せを願いながら、見守っていきたいと思います」
皇室に入ってからのことや、ここ1年の出来事については詳細に語っているのに比べて、この回答は、意外なほど短いものに終わった。
なぜだろうか。
「重要な当事者」としての物足りなさ
もちろん、皇族がこの問題について自分の思いを率直に述べることは難しい。紀子妃の場合、皇室に民間から入った立場の難しさも加わっているかもしれない。
だが、夫である秋篠宮が天皇に即位すれば、紀子妃は皇后になる。悠仁親王が天皇に即位すれば、天皇の母になる。
そうした重要な立場にある人間の発言としては、正直、物足りない回答であった。皇族数の減少に伴う現在の皇室の危機を考えると、どうしてもそうした感想が浮かんでくる。
紀子妃が、子どもたちの自由や自発性を何より重んじてきたことは、その学校選びに示されてきた。紀子妃自身が学習院の出身として深い関係を持ちながら、悠仁親王は、戦後の皇族として初めて、一度も学習院で学ばなかった皇族になってしまったからだ。
そこに、悠仁親王に対する「帝王学の不足」が指摘される素地があるが、まして秋篠宮家は宮家の一つであり、悠仁親王は天皇から直接、帝王学を授かる環境にはない。そこで、天皇家直系長子の愛子内親王と、どうしても比較されてしまうのだ。
批判的に言うならば、紀子妃は、天皇の母となる立場から逃げてきたのではないか。その印象がぬぐえない。
国民が感じている秋篠宮家への不安
そのことは、夫である秋篠宮についてもいえる。
『文藝春秋』誌の10月号には、昭和史研究家の保阪正康氏による「愛子天皇は歴史の必然である」という論文が掲載された。それは、高市政権に対する厳しい批判にもなっている。政権が皇室のこれまでの平和への努力をないがしろにしていると指摘した上で、天皇や皇族の考えを聞かずに進められた皇室典範改正の問題点を明らかにしている。
そして最後に、今回の改正について「白紙に戻したうえでの全面的な改正」が提言され、その際には、天皇家の家訓となる歴史観を継いでいる「愛子天皇への道筋」が探られることになると結ばれている。
まっとうな議論であり、それに納得する読者も少なくないと思う。注目されるのは、その論文の後に、編集部の取材記事として「悠仁さま 天皇教育の波紋」というレポートが掲載されていることである。
レポート全体の趣旨は、秋篠宮と紀子妃が子どもの教育について相当な努力を重ねてきたことは間違いないところだが、帝王学を授けるという点では、果たしてそれが十分になされているのか、そこに疑問を呈している。
まさしく、国民が感じている不安を裏付ける内容である。
「天皇になる覚悟」が育ちにくい環境
たとえばレポートのなかで、秋篠宮が折にふれ、「自分は天皇たるべき教育を受けていない。天皇たるべき人は、幼い頃からそういう教育を受けていないと駄目なんだ」と周囲に語っていることが指摘されている。
今、秋篠宮は「皇嗣」として次に天皇に即位するとされている。本人は、即位の意思がないことをかつて表明したこともあるが、制度上では次の天皇は秋篠宮である。
それは、天皇夫妻に男子が生まれなかったからである。それまでの間、秋篠宮は自分が天皇に即位する可能性についてほとんど考えていなかったはずで、それも無理からぬことである。
そうしたことを踏まえ、上皇に近い関係者によると、美智子上皇后なども、悠仁親王に将来天皇になる覚悟や使命感を、秋篠宮が育てることができるのだろうかと心配しているという。
秋篠宮も、つとめて悠仁親王を連れて上皇と上皇后のもとを訪れ、そこから天皇とは何かを学ばせようとしてきたというが、その程度では、天皇という重責を担う資質が悠仁親王に育まれるとは考えにくい。
見えてこない天皇家と秋篠宮家の交流
『文藝春秋』誌のレポートによれば、秋篠宮はかつて、悠仁親王を兄の天皇と皇后に育ててもらうことを口にした時期もあったという。
それは実現しなかったわけだが、平成の時代には、美智子上皇后の呼び掛けで、上皇と天皇、そして秋篠宮が月に一度集まる機会が設けられていた。ただ、上皇が退位した後には、そうした定例の機会は失われてしまったという。
これは、どの家庭でも経験することである。兄弟姉妹は、子どもの頃には親密な関係にあるが、年齢を重ねるとともに関係は希薄になる。とくに親が亡くなれば、ほとんど会うことがなくなっていく。天皇家と秋篠宮家の私的な交流も、現在ではほとんど報じられなくなっている。
拙著『日本人にとって皇室とは何か』(プレジデント社)でもふれたが、天皇家に次男として生まれることは、かなり難しい面を持っている。通常なら天皇には即位しないわけで、皇族としてどう生きていったらいいのか、別の目標を立てなければならなくなるからだ。
秋篠宮の場合、それを学問の世界に求めていったわけで、その資質にも恵まれている。悠仁親王は、その後を追っているように見えるが、それはあくまで学者の道であって、皇族の道ではないのである。
秋篠宮家に欠けている「公の覚悟」
息子を学者には育てられるが、天皇には育てられない。それが秋篠宮の置かれた難しい状況であり、そのことが紀子妃にも影響している。
皇室典範第11条は、皇太子と皇太孫を除く親王について、「やむを得ない特別の事由があるとき」は、皇室会議の議により皇族の身分を離れることができると定めている。その点では、秋篠宮が皇室を離れるという強い意志を示していたら、それは可能だったはずだ。その方向に踏み出さなかったということは、皇族の一員として生きていく覚悟を、どこかの時点で決めたことになる。
そうであるならば、自分が天皇に即位することも受け入れ、将来の天皇の父として悠仁親王を立派に育て上げる覚悟を持つ必要がある。それが欠けているがゆえに、紀子妃の子育ても、子どもたちの自由や自主性だけを重んじるものになってしまったのではないだろうか。
帝王学を授けるために不可欠なもの
一方で、悠仁親王のほうは、ボーイスカウトの大会において「お言葉」を述べる経験をしている。
皇族が10代で「お言葉」を述べるのは異例である。つまり、悠仁親王は学生であるにもかかわらず、公務を積極的にこなしているわけだ。大学では生物学を学ぶ一方、成年式を経験し、日本の伝統文化にも関心を寄せるようにもなっている。
それを踏まえると、悠仁親王には将来自分が「天皇に即位する覚悟」が芽生えていると見ることができる。悠仁親王が皇族男子の最年少であり、その後がいない以上、そうした自覚が生まれるのも当然である。
そうした覚悟をいかに強固なものにしていくのか。『文藝春秋』誌の記事は、その点について、天皇家と秋篠宮家が緊密な関係を築き、宮内庁がそれを全面的に支える必要を訴えている。それは、正論である。
「親ガチャ」という言葉が流行したが、人は誰もが自分の生まれを選ぶことはできない。もっと違う環境に生まれたかった。誰しも、そう思うことがある。だが、それは不可能な願いだ。人は自分の生まれを受け入れるしかない。
その点で、秋篠宮も、妃である紀子妃も、同じである。皇嗣、皇嗣妃という運命を受け入れ、将来、天皇皇后となる立場にあるという覚悟を持つことこそが、悠仁親王に帝王学を与える最良の手立てとなる。
それは秋篠宮本人にも好ましい影響を与え、秋篠宮家全体に新たな光明をもたらすはずである。