木下尚江との破局後、縁談があった
NHK連続テレビ小説「風、薫る」のヒロインのモチーフとなった大関和は、明治から昭和初期にかけ看護婦の先駆者として輝かしい経歴を残す一方、家庭面ではいくつかの「叶わなかったこと」があった。
19歳で嫁いだ結婚は数年で破れ、再婚話は二度も立ち消えとなった。授かった二人の子も、息子は33歳、娘は20歳で世を去っている。
ここでは、1898(明治31)年ごろに持ち上がりながら実現しなかった二度目の再婚話と、その2年後、1900(明治33)年に迎えた娘・心の死について見つめなおしてみよう。
最初の結婚が破れて以来、二児を実母に預け、仕事にまい進していた和は、1898(明治31)年頃、社会運動家・木下尚江と恋愛関係に陥る。しかし周囲の反対であえなく断念。それから時を俟たずしてもう一つの縁談が持ち上がったといわれている。相手が誰で、どのような経緯で話が来たのかは史料に残っていない。わかっているのは、これも周囲の反対によって立ち消えになったことと、和自身の抗議だけである。
「どうか、どうか私の希望を邪魔しないで下さいまし、後生一生のお願い、この通りです」
畳をたたき、涙を流してそう訴えたという逸話が伝わる。
泣いて「結婚したい」と訴えたが…
当時の和は40歳(数え年であれば、もう少し上の可能性も)。最初の結婚では夫の女性関係に苦しめられ、木下尚江との縁談も叶わず、この再婚話までもが周囲によって退けられるとは、よくよく結婚に恵まれない和である。
そもそも、木下尚江との話は、ふたりの知人で新宿中村屋の主人である相馬愛蔵に反対された。和が10も歳上であることと尚江の女性関係が理由だった。矯風会で廃娼運動をしている和に、女郎と同棲していたといわれる尚江はふさわしくないと思われたのだ。
そして二度目の反対者は牧師の島貫兵太夫。相手が誰かわからないため反対理由もわからないが、あまりに激しい和の抗議に、「どうしてこの人はこうなのか」と弱り切ったとは島貫の弁。もちろん和を思っての反対だから、当時のいわゆる「常識」に反するような縁談だったのだろう。直情的で純粋な和の突っ走り具合に、ほとほと困ったようだ。
和の激しさを証明する逸話
直情的といえば、和の激しさをよく表す逸話がある。1904(明治37)年5月8日、日比谷公園で日露戦争の市民による祝捷会が開かれた際、提灯行列の波が馬場先門付近で将棋倒しとなった。和はただちに駆けつけると、橋の欄干から群衆のなかへ自ら飛び込み、死傷者を次々と担ぎ出しては救助にあたり、警官に向かって「貴官の剣を貸し給え」と絶叫したという。後先考えずに救助にまい進する姿は看護師の鑑だが、一歩間違えば和の命もなかっただろう。
職業人として次々と道を切り拓いた一方、恋愛や結婚においてはどこかレールを外れ、望む結末にたどり着けない和。看護師として奔走する社会的な顔と、涙ながらに結婚を願う個人的な顔とは落差があるようにみえて、和のなかでは繋がっているのである。
二度目の再婚話については評伝などでも省略されていることが多い。世に出て華々しく活躍する和に対する世間の目を考えれば、あえて記録に残さない選択をされたのだろう。
40代で活躍中、家族の不幸を経験
2年後の1900(明治33)年6月23日、和は娘の心を病で亡くした。
思い起こせば1880(明治13)年春に心が生まれたとき、故郷の栃木県で結婚した和は、婚家を出て実家にいた。外に子どもをつくって帰宅せず、態度を改めようともしない夫に嫌気がさし、離婚するつもりで里帰り出産したのだ。離婚は女の恥とされた時代に、和が下した大きな決断だった。
黒羽藩の家老だった父はすでに没していたため、和は母の哲と妹のコクと子どもを連れて上京。英学塾で英語を習い、キリスト教に触れ、正規の看護師(トレインド・ナース)を目指すようになる。
優秀さで群を抜いた和はその後、帝国大学医科大学附属第一医院(現東京大学医学部附属病院)の看護婦長、新潟県の高田女学校(現高田北城高等学校)の伝道師兼舎監、知命堂病院の初代看護長など次々と活躍の舞台を移した。その間、心と六郎の二児の養育はすべて母の哲に任されていた。
朝ドラに出てこない息子は…
六郎は最初は文学を志していたものの、東京慈恵医院医学校(現東京慈恵会医科大学)に進み、心も東京慈恵医院看護教育所(現慈恵看護専門学校)に通うようになる。母と同じ医学の道を目指してくれたことは、和にとって大きな喜びだったと思うが、家族らしく食卓を囲むような時間はとれなかったと思われる。和はこの時期、看護婦養成所で教鞭をとり、恩師の死を看取り、著書を出版するなど多忙を極めていた。
そんなさなか、1900(明治33)年6月23日、心が亡くなってしまったのだ。
わずか20歳で病死した娘
看護教育所での座学を終えた心は、いよいよ実習に入ろうかという段になって風邪のような症状を訴えた。診断したところ、結核が判明。和はつきっきりで看病にあたったというが、わずか4カ月後に20歳でこの世を去った。
自分と同じ看護師の道を歩もうとしていた娘を、知識と技術のすべてを注ぎながらも救えなかったことは、和にとって重い意味を持った。和は後年「心の話題は極力避けていた」とも伝えられている。職業柄、多くの人を看取ってきた経験があっても、我が子の死を語り得なかった和。その心情を思うと、居たたまれない思いがする。
葬儀は和の恩師である植村正久の一番町教会で執り行われ、死化粧を施された心の顔を和が呆然と見つめていたとする記述もある。
「母性の欠如」の問題だったのか
明治期、社会的に成功した女性の私生活、とりわけ結婚の失敗や子の死といった「家庭のつまづき」は、公的な記録に残りにくい性質のものだった。男性の社会的成功者であれば、家庭を顧みなかったことはさして問題視されない。しかし女性の場合、同じ選択は「母性の欠如」として語られがちであり、和自身、あるいは周囲の人々が、あえてそれを記録に残さなかったと想像できるのである。
大関和という人物の評伝を組み立てるとき、私たちはどうしても「輝かしい業績」の側から光を当てがちになる。しかし、彼女がついに得られなかった二度目の結婚、そして胸の内にしまい込んだ娘への悔恨は、彼女の人生の輪郭をむしろ浮かび上がらせる。史料の空白そのものが、当時の女性が置かれていた構造を映す鏡になっている。
・参考文献
佐波亘編『植村正久と其の時代』第5巻、教文館、1937年
木下尚江『木下尚江著作集』第15巻、明治文献、1973年
日下部桂『松本平文学漫歩続』 信濃往来社、1959年
亀山美知子『大風のように生きて 日本最初の看護婦大関和物語』ドメス出版、1992年
田中ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』中央公論新社、2023年
青山誠『大関和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』角川文庫、2026年
相馬黒光『穂高高原』女性時代社、1944年
高橋政子「大関和のこと(補遺)」『看護教育』22(9)(252)、医学書院、1981年9月
『看護実践の科学』3(6)看護の科学社、1978年6月
『婦人新報』第35号、日本キリスト教婦人矯風会、1900年3月25日