100歳にして詩歌文学館賞を受賞
中野区野方、駅から程近い閑静な住宅街に目指す場所があった。門には「水甕」と掲げられており、この瀟洒な邸宅は短歌結社「水甕」の拠点であることを示していた。歌誌『水甕』は大正3(1914)年、歌人の尾上柴舟を中心に創刊されたものだ。
胸が高鳴る。扉の向こうには100歳の歌人、春日真木子さんとの対面が待っている。昨年出版した15冊目の歌集『宇宙卵』が今年3月、詩歌文学館賞に選出され、今なお現役で歌を作り続けている女性だ。
木目が美しい空間に入るや、一瞬にして、車椅子に座る痩身の女性から放たれる、好奇心をたたえたくっきりとした眼差しに吸い寄せられた。春日さんだ。知的な雰囲気が漂い、風貌には強い意志が宿る。きれいに化粧をされ、明るい色合いのフェミニンな洋服がよく似合う、穏やかな柔らかさも併せ持つ女性だった。
取材の冒頭、ボイスレコーダーをテーブルにセットするや、「まあ、大変」。その声があまりにかわいらしく、お茶目な方だとすぐにわかる。インタビューは歌人であり、現「水甕」代表の娘、春日いづみさん(77歳)が補佐する形で行われた。
両親に遊んでもらえなかった
生まれは大正15(1926)年、鹿児島市。歌人であり、旧制中学教師の父と、元女学校教師の母との3人家族で育った。わずか1歳で、一家は名古屋へ転居する。
「全ては『水甕』のため。水甕の編集をする人が必要で、祖父に白羽の矢が立ってのことでした」といづみさん。そこにすかさず、春日さんが割って入る。
「つねのりと書いて、“じょうけん”と言うのよ。条件付きでね」
ダジャレのセンスに、部屋は爆笑の渦となった。
父・松田常憲さんは大正3(1917)年、22歳で「水甕」に参加、一生涯、短歌に生きた人物で、毎回、200首や300首もの歌を小包で編集部に送りけたという、歌が溢れて止まらない熱情の持ち主でもあった。
「父がね、食事の時に、『今日はいい歌ができたぞ』って、朗々と詠んで聞かせるわけですよ。その声が素晴らしいの」
父にとって歌を作ることも大事だったが、「水甕」という結社を守ることこそ主眼でもあった。父は編集、母は会計など裏方の業務を担った。両親は、どんな夫婦だったのだろう。
「仲良くしないと、『水甕』が出せない。『水甕』が出せないから、やむを得ず仲良くしてた」
かつて観察者だった少女は、いとも容易くサラリと流す。少女は、母がオルガンが好きで讃美歌をとても美しい声で歌うことを知っていた。
「私は両親に遊んでもらえなかった。みんな、水甕のほうが大事。近くに畑があって、散歩について行っては、畑のものをよく眺めたりしていましたね」
歌人としての独特の“眼”は、幼い日々の中から生まれたのだろうか。
「お前は平凡に生きなさい」
昭和13(1938)年、日中戦争の翌年に、一家が東京に居を移したのも、「水甕」のためだった。「中央」で発行する雑誌であることこそ、結社の悲願だったからだ。こうして中野区にある松田家が、「水甕」の発行所となった。
「夫婦で、水甕を背負ったわけですよ。母は大変だったと思います。結社の人たちの旅館みたいなものだったから」
12歳だった春日さんは東京で女学校に入り、卒業後は千代田女子専門学校に進む。実母が大正初期であっても大学で学んだというのに、なぜ、専門学校だったのか。
「常憲が言うんですよ。『歌がうまい女性は不幸な人が多い。だから、お前は平凡に生きろ』って。だから、平凡なんですよ」
「平凡」なんか全くそぐわないのに、クスリと笑えるオチを春日さんは忘れない。父の教え子たちはほぼ「水甕」に入り、歌を作っていた。その姿を見ていた父だからこその、「平凡に」という教えだった。だが、本人として異議はなかったのか。生まれ落ちた時から、短歌に囲まれて生きていたのに。
「家の状態をじっと見ていましたから、私はあんな歌まみれとか、そういうことは一切しないでいたいって思ったんです」
ここにも、冷徹な観察眼を持った少女がいる。専門学校に進んだものの、時は昭和19(1944)年、太平洋戦争の真っ只中。戦況は激化の一途を辿り、授業どころか、軍需工場での作業ばかりの日々。
「軍需工場の辺りで、爆撃があるんですよ。あの頃は本当に怖かった……。だから親は学校を中退させて、三井鉱山に就職させたんです。まだ、安全だろうということで」
学徒動員で出征した忘れられない3人
当時、春日さんには忘れられないことがある。学徒動員で出征した、3人の「水甕」の若者のことだ。3人とも慈恵医大の学生で、よく父を訪ねてきた。
学徒出陣が始まったのは1943(昭和18)年。医学生は、軍医として招集された。
「3人が家に来ますとね、終電まで父と語り合って楽しそうでした。学徒動員となって別れを告げにきた時、父は『万葉集を持っていけ』って。父は、彼らの姿が見えなくなるまで見送っていました。うっすらと、涙を浮かべて……」
国内でも、状況はどんどん逼迫する。歌会をしていれば憲兵がやってきて、治安維持法、国家総動員法に抵触するなどの弾圧を受ける。雑誌にとっての生命線である印刷所が焼失し、紙も配給となった。
戦争は、もう二度とあってはならない
春日さんは一人、東京近郊に疎開することとなったが、そこには「水甕」を守る使命もあった。
「リュックを背負ってね、水甕を運んだんです。印刷しても配れないものや、印刷所がなくなって謄写版で刷ったものとか、大事なものは全部背負って。そういうお手伝いは、一生懸命していました」
開戦のニュースを聞いたのは実家だったが、玉音は疎開先で聞くこととなった。今、強く思う。
「とにかく、戦争はいけません。二度と、あってはならないことですよ。だから私はいつも空を見て、太陽がどこに行くのかを見てるんです。その太陽が行き着く空の下ではまだ、戦火を浴びている人がいる」
学徒出陣から帰ったのは、2人だけだった。その一人がなぜか、生きた鶏を抱えてやってきた。その鶏がやがて、卵を産んだ。
「その卵が、ぬくかったの。そのぬくいのが宇宙卵の始まりだったんじゃないかなと、昨日、ふと思ったんです」
結婚、そして未亡人に
戦後すぐ、20歳で結婚した。「平凡に、幸せになるため」の、お見合い結婚だった。24歳で、娘・いづみさんが産まれたものの、いづみさんが記憶する父の思い出は、数えるほどしかない。癌でずっと闘病を続け、5歳の時に亡くなったからだ。
「私の夫となる人は、京都大学を出た商社マンでした。夫も一緒に水甕を運んでくれ、手伝ってくれました。ありがたかったですよ。でも、亡くなっちゃったんですよ……」
薄暗い癌病棟の病室で、死に行く夫に付き添い、看取った中、「歌が生まれた」と春日さん。春日さんだけの、誰にも取って代われない歌が、きっとそこで懐胎したのだ。
まだ28歳という若い女性に、世間は未亡人というレッテルを貼る。それは惨めで哀れで、可哀想な存在という型に嵌めることだった。
「涙で滲んだような、薄い字で手紙を書いてくるのよ。お気の毒ですって。これからは、子どものことだけを考えてって言われた時に、ごぼうのささがきを粗く作ってね」
そこにあるのは母という「役割」だけ、生身の人間は存在しない。これが当時の思いやりのある、慰めだった。春日さんは、怒りを隠さない。猛然と、人間として反旗を翻す。ここに、春日真木子の歌は生まれた。
作らないと決めていた歌を作り始めた
当時、有名になった中城ふみ子さんの「乳房喪失」という歌集に触発されたこともあり、春日さんは歌を作り始めた。
「歌を作って、切り抜けたんです。喪失感に浸るとかじゃなくて、自分が跳ねていくため。自分が強くならなくちゃって、それしかなかった。今まで歌に囲まれて生きていても、自分では作らないと決めていた。だから、これは大転換です」
高らかに生身の人間としての自己を歌い上げた一首は、20年近くの時を経て出版された、春日真木子第一歌集『北国断片』[昭和47(1972)年]の巻頭歌となった。自分の意思で、颯爽と時代を切り開いて生きる、新たな女性の姿がそこにあった。