御年、94歳。今日も映画館の切符売り場で自ら客を迎える館長がいる。「別府ブルーバード劇場」の岡村照さんは、父が創業した映画館の3代目。比類なき「映画館の娘」である岡村さんが見続けてきたものは何か。ノンフィクション作家の黒川祥子さんが取材した――。(前編/全2回)
伝説のミニシアター「別府ブルーバード劇場」の館長・岡村照さん
撮影=プレジデントオンライン編集部
伝説のミニシアター「別府ブルーバード劇場」の館長・岡村照さん

映画人にとっての伝説の劇場

いくつもの湯煙が立ち昇る、日本きっての湯処・大分県別府市。駅からメイン通りを緩やかに下ると、別府で唯一の映画館「別府ブルーバード劇場」が右手に見える。

この映画館こそ、映画人にとっての“パワースポット”との異名を持ち、全国からこの場所を目指してわざわざ客が訪れるという“伝説の劇場”だ。

それはひとえに、今月28日に95歳を迎える3代目館長、岡村てるさんの存在があればこそ。岡村さんは女手一つで50年以上、一人で劇場を守ってきた。入り口から階段を登って、2階になる劇場の扉を開ければ毎日、陽気な笑顔をたたえ、切符売り場に座っている岡村さんに会うことができる。

創業は1949(昭和24)年、岡村さんの父、中村弁助べんすけさんが現在地に開業し、夫である昭夫あきおさんが2代目館長として引き継ぎ、そして3代目館長を継いだ岡村さんこそ、ブルーバード劇場の代名詞であり、“看板娘”だ。

連載「Over80 50年働いてきました」はこちら
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ひと眼見ただけで、とてもおしゃれな人だとわかる。この日は桜色のセーターにエレガントな襟のついた桜色のジレを羽織り、ボトムスは黒のパンツ。セーターのフロントには黒の花模様が散りばめられており、ボトムスとのトータルコーディネートが素晴らしい。

華やかで、ふんわりとした春らしい装いに、チャーミングでいたずらっ子のようなキュートな笑顔の持ち主だった。飾らない人柄そのままの、かわいらしい笑顔。きっと映画関係者もお客も、この笑顔に会いにくるのだ。そして誰もが親しみを込めて、「照さん」「照ちゃん」と呼ぶ。

映画に魅せられた“映画館の娘”

生まれは1931(昭和6)年。映画好きの父に連れられて、小さい時から映画館の空気を呼吸していた少女だった。

「上原謙さんと田中絹代さんの『愛染かつら』とか、恋愛ものが好きでねー。“おませさん”って、言われよった」

『愛染かつら』の上映は、1938年。照さん、わずか7歳。この歳にして、身分違いの悲恋に心をつかまれるとは、恐るべし。

10歳で太平洋戦争が始まり、女学校時代の14歳で終戦を迎えた。

「戦争中の映画は、ニュースばっかり。どこで日本軍が勝ったとか、いいところばっかり映してね。戦後になって印象に残っているのは、外国映画の『黒水仙』とか、ジョン・ウェインのウエスタンものとかね」

男子高野球部一のイケメンとの出会い

映画と並んでなぜか、野球が大好きな少女だった。女子高からの帰り道、近くの男子高の野球部の練習をよく見に行き、野球部一のイケメンとお付き合いをすることに。それがのちの夫、昭夫さんだ。

“アッキン”、“照ボウ”と呼び合う仲になった。女子学生が練習を見に来てくれるなんて、男子高校生にとってこんな“僥倖ぎょうこう”はない。

「私が球場に入ると、みんなが『アーアッ』て大きな声を出して張り切るもんだから、先生が毎日、練習に来てくれって言うの。行けばベンチに座らされて、マネージャーみたいなことしよったのよ」

まさに、野球部のマドンナ。何も臆せず、好奇心のまま行動する、天真爛漫らんまんな少女が目に浮かぶ。花のように、明るく笑って。

高校3年になって男女共学となり、昭夫さんと同じ高校で学んだ。卒業後は、一緒に横浜の大学へ行こうと約束した。

その年、父である弁助さんが今の場所で映画館を始めた。子どもたちにいい映画を見せたいという思いがあり、映画館の名前は小学生に募集し、4年生女子の希望で「青い鳥」になった。初上映は、ディズニーのアニメ「白雪姫」。招待された小学生にとって、どれほど感激だったことだろう。

「平屋の映画館で、欧州映画を上映してました。そしたら映画部の高校生から、『洋画をようするから、ブルーバードにしたら』って。それで、『ブルーバード』に変えたんです」

スクリーンと一体感を味わえる約80席の“映画好きのための空間”
撮影=プレジデントオンライン編集部
スクリーンと一体感を味わえる約80席の“映画好きのための空間”

映画館の“テケツ”の引力に導かれ

自分の家が、映画館になったのだ。照さんにとっての放課後は、夜までどっぷりと映画漬け。切符売り場(通称テケツ)に入って、切符を切る役もたまらなく楽しかった。

「大学の願書まで出したのに、行くのをやめたの。『横浜は一人で行って。私は別府に残るから』って。“テケツ”に座るのが、楽しくてしょうがないの。面白くなってきてね」

なんと、天然な気風の良さ。大学とテケツをはかりにかけて、何の迷いもなくテケツを選ぶ。その判断に世間の価値観とか、外側の物差しは何一つ入ってこない。軸は、自分がわくわくするものに向かうだけ。好奇心の赴くまま、お茶目に笑う18歳がそこにいた。

ここから、4年間の遠距離恋愛が始まった。お互いを結びつけるのは、手紙だけ。出せば、3日後に返事が届く。そのくり返し。

「相手は貧乏学生だから、切手を必ず手紙に入れるの。その切手を貼った手紙が来て、その行ったり来たり。彼は横浜で就職するつもりで、私を呼ぼうと思ってたんだけど、映画館が面白かったし、私は長女だからね。それで、彼が別府に帰ってきた。『ニュートンの引力を感じる』とか、言ってたけど。別府に戻ってくるのを待って、すぐに結婚した」

昭夫さんは映画館の仕事に就き、照さんは24歳で長女、29歳で次女・実紀みきさんを出産した。実紀さん(66歳)は今、母の片腕のマネージャーとして映画館の仕事を担っている。

吉永小百合も訪れた黄金の日活専門時代

父が館長だった昭和30年代は、「日活ブルーバード劇場」として日活専門の映画館だった。今も館内に飾られている、女優の吉永小百合さんとの写真はその時代のものだ。

木下惠介監督、月丘夢路さん、高倉健さん、吉永小百合さんと「若き日の館長」
撮影=プレジデントオンライン編集部
木下惠介監督、月丘夢路さん、高倉健さん、吉永小百合さんと「若き日の館長」

「日活の映画館だったから、吉永小百合さん、浅丘ルリ子さん、山本陽子さんもみんな、うちに来てるんです。私は月丘夢路に似てるってよく言われたり、ネ」

その面影は、間違いなくある。その容貌で天真爛漫の笑顔があれば、照さんは掛け値なく無敵だ。

1966(昭和41)年に現在のビルを竣工、その頃は洋画の2本立てをオールナイトでかけていた。もちろん照さんは、封切り作品を全て観る。

「当時はブルース・リーとか、カトリーヌ・ドヌーヴ、クリント・イーストウッドとか観てましたね。好きだったのは『ひまわり』。ストーリーだけじゃなく、音楽もとっても良くて。それと、『ローマの休日』。グレゴリー・ペックのファンになったの」

お分かりだろうが、照さんは甘いマスクのイケメン好きだ。邦画なら、好きな俳優は佐分利信、佐田啓二、そして今は斎藤工。

「第6回 BEPPU ブルーバード映画祭」(2024年)のゲスト・斎藤工さん(後列中央)たちとともに
撮影=プレジデントオンライン編集部
「第6回 BEPPU ブルーバード映画祭」(2024年)のゲスト・斎藤工さん(後列中央)たちとともに

「食べながら鑑賞」できる斬新なアイデア

1970(昭和45)年、照さんたっての希望で、劇場を今の2階に設置した。この年に創業者の父が亡くなり、昭夫さんが2代目の館長となった。

夫・昭夫さんは時代を先取りした、斬新な映画館を作り上げた。劇場に可動式の椅子を置き、奥にはカウンター。椅子横に長方形の小さなサイドテーブルを置き、赤い豆電球をつけ、ライトが光れば、給仕係が椅子に出向き、注文を取る。メニューは昭夫さん手作りの特製カレーにサンドイッチ、コーヒー。おかげで観客は出来たての軽食を食べながら、映画鑑賞ができるのだ。実紀さんは、父のカレーを記憶する。

「大きなビーフの塊を何日も寸胴ずんどう鍋で煮込んで、トロトロに煮込まれたビーフの塊が1個か2個入る、ねっとり濃厚なカレーでした。おいしかったですねー。もともと料理が好きで、中華屋をやりたいって言っていた人だから。食べたい人は食事を注文して、食べながら映画を観る。そういう映画館があってもいいかなと思っていたんじゃないですか」

ちなみに、照さんは料理に関して「あんまり作らない。パパにまあ、お任せや」。

実紀さんには、こんな思い出がある。

「ママの料理は、適当。でも私と姉は、ママのご飯で育ったわけだから。ママのご飯って、牛肉と野菜を塩胡椒でサッと炒めただけとか、そんなのばっかり。でもおいしいの」

料理だって、照さんにかかれば気風の良さに尽きるわけだ。凝り性の昭夫さんと、対象的だ。照さんのおおらかさを思えば、夫にうるさいことは一切言わない妻の姿が見える。

「うん、そうやね。自由にね。お互い、束縛もなく」

しかし、予期せぬ別れが訪れる。

「本望やろな、大好きな温泉で」

それは、いつも通りの何も変わらない5月の朝だった。

昭夫さんは毎朝、近所の温泉に行く。その日も「行ってくる」と出かけたのに、まさか、帰らぬ人になってしまうとは。まだ41歳、新しいタイプの映画館を始めてわずか10カ月後のことだった。

「朝風呂が好きでね、家のお風呂になんか、入らないから。本望やろな、大好きな温泉で」

誰一人、まさか、大切な家族をこんな形で永遠に失うなんて思ってもいない。次女の実紀さんは当時、11歳。

「病気とか何もなくて亡くなったので、家族3人、誰も覚悟ができてない。当時のお葬式の写真を見ると、みんな『え?』って感じ。狐につままれた感じ。泣いてない」

大事な伴侶の喪失を、照さんはどう受け留めたのだろう。照さんは40歳になったばかり。夫婦の時間がこんなに短いものになるとはもちろん、夢にも思わない。

「あんまり、考えないようにしてた。考えると、つらいから。だけど41歳って、今からよねー」

照さんは多くを語らない。当時に戻れば、際限のない悲しみに引き戻されてしまうかのように。

「映画があったから、助かった。3日間だけ閉めて、その翌日から開けたから。正月も休みなし、大晦日だけ夕方までの映画館だったから、変えなかった。今日かかる作品を観たい人は必ず、いる。だから、開けなきゃって。映画に関しては、彼より私のほうが先輩や、と思ってもいたし。当時はオールナイトで朝4時までやっていたの」

映写室には亡き夫・昭夫さんの写真が飾られている
撮影=プレジデントオンライン編集部
映写室には亡き夫・昭夫さんの写真が飾られている

生涯の伴侶に見守られる映写室

自分の使命は映画館を開け、お客を迎え、上映を続けること。

夫亡き後も、やることは変わらない。その当時、高校1年と小学6年の娘は二人で過ごしていた。実紀さんは言う。

「同じビルに、母方のおばあちゃんがいたから、その安心感はあったかな。おばあちゃんの家で朝食を食べて、学校に行ってました」

母と娘の3人だけになった家族は、それぞれの悲しみを抱え、前に進むしかなかった。

今も映写室のスクリーン側の壁には、昭夫さんの写真が飾られている。照さんは毎日、ここで手を合わせる。昭夫さんという生涯の伴侶に見守られて、照さんはその倍以上の歳月を、今日も映画と共に生きている。