なぜ「愛子天皇」待望論は高まるのか
考えてみると、それはいささか不可解なことかもしれない。
成年式を終えた秋篠宮家の悠仁親王は、成年皇族として公務に励むようになり、国民の前に登場する機会も増えた。その評判も決して悪いものではない。
ところが、かえって「愛子天皇」待望論は日増しに高まっているからである。いったいこれは、どうしたことなのだろうか。
悠仁親王は筑波大学の2年生になった。学生の間は学業が中心であり、公務などにたずさわるのは大学が休みの期間に限られる。その分、大学が休みに入ってからは、さまざまな活動を展開してきた。
2月には成年式を終えた報告を、明治天皇の陵である伏見桃山陵に対して行うため京都を訪れており、その際には蹴鞠や雅楽を体験している。
能装束を手がけている織元の佐々木能衣装も訪れている。そこでは、西陣織の唐織の機織りまで体験している。
これは、私的な訪問になるが、なぜそうした場所を訪れたかといえば、成年式において独特の装束を着用したことがきっかけになっていた。そこから伝統的な技術を継承している織元に関心をもったというのである。
「裏切り」と非難された高市首相の答弁
悠仁親王は、幼い頃からトンボの生態に関心をもち、住まいとなる赤坂御用地で観察を続けてきた。それが筑波大学生命環境学群生物学類への進学へと結びついたわけだが、今や生物学だけではなく、皇室とも深く関わる文化や技術に対しても関心を深めている。
そこには、成年式を経験しただけではなく、宮中祭祀に参列するようになったことも影響しているだろう。宮中祭祀を司るのは、大祭の場合は天皇で、小祭は掌典長になり、大祭には他の皇族も参列する。悠仁親王も、成年式を終えてからは、それぞれの大祭に参列している。そうした機会に接したことも、関心を広げることに結びついたはずだ。
ところが、そうした行動が、「愛子天皇」待望論を鎮静化させることに結びついたかといえば、どうもそうではないようだ。
かえって、「愛子天皇」待望論は高まっている。最近では、週刊誌などが、その特集を組むことがあり、私のところにも取材の依頼が来るようになった。
しかも、かつては女性天皇を容認するかのような発言をしていた高市早苗首相が、国会の場で、女性天皇を否定する答弁を行うと、それを「裏切り」と非難するような声さえ上がっている。
いったいなぜ、そうした事態が起こったのか。国会において、皇位の安定的な継承と皇族数の確保の問題が本格的に議論されようとする段階にある今、改めてそのことについて考える必要がある。
その際に、先月一つ、注目される発言があった。
小川代表発言の背景にあった強い民意
それは、中道改革連合の新しい代表になった小川淳也衆議院議員の発言である。
小川代表は3月27日の記者会見で、将来における皇位継承に関連して、自分は「女性天皇を生きているうちに見てみたいという日本国民の一人だ」と発言したのである。
皇室の問題については、国会において4月15日から各党・会派の代表者を集めて全体会議が開かれる。そこに中道も参加するが、母体となった立憲民主党と公明党の議員の間に考え方の上で開きがあり、そのときまでに党内で意見の集約をするのは難しいとされている。そんな中での小川代表の発言だった。
小川代表の発言は、国民の間に女性天皇を求める声が強いことを背景としている。
自民党に多い保守派の議員が男系での継承にこだわり、女性天皇や女系天皇を決して認めようとしないのとは対照的である。このことは、国会での議論に影響を与えるかもしれない。
その点については、現時点での予測は難しいものの、「愛子天皇」待望論を後押しするような発言が政治家から出たことの意味は大きい。小川代表が、全体会議において、記者会見と変わらない発言をしたとしたら、女性天皇の実現を阻むような形での皇室典範改正にブレーキがかかるかもしれない。
ただ、そんな矢先の4月3日、小川代表は記者会見でその発言を撤回し、謝罪してしまった。
天皇が秋篠宮家から生まれることへの葛藤
自分が生きている間に女性天皇の姿に接してみたいというのは、多くの国民が感じているところでもある。しかもそれは抽象論ではなく、間違いなく愛子内親王の天皇への即位のことを指している。
「愛子天皇」待望論を唱える人たちは、悠仁親王では将来において、憲法が定める日本の象徴、日本国民統合の象徴たる天皇としてはどこか受け入れがたいという気持ちを抱いていることになる。
そこには、秋篠宮家に対する国民の評価が影響している可能性は考えられる。眞子元内親王の結婚問題が影を落としていることは間違いない。そのことに悠仁親王はまったく責任がないのだが、多くの国民は秋篠宮家から天皇が誕生することに複雑な思いを抱いている。
そこには、悠仁親王本人の問題もからんでいるのではないか。それも、実は本人の責任ではまったくないことなのだが、その「生まれ」ということが深く関係しているのである。
“甘え上手”で愛される末っ子気質
悠仁親王は、秋篠宮家の長男ではあるものの、上には2人の姉がいる。しかも、その姉とは年齢がかなり離れている。上の眞子元内親王とは15歳、下の佳子内親王とは12歳違う。
これだけ年齢が離れていれば、悠仁親王は姉たちにかなり甘やかされながら育ったことが考えられる。親の場合だと、子どもを甘やかしてばかりはいられないと厳しく接することもあるかもしれないが、姉たちともなれば、そんなことは感じない。「かわいい弟だ」と徹底して甘やかすのだ。
そうした姉弟構成の人物として石破茂元首相がいることについてはすでに触れたことがある。石破元首相も2人の姉がいる末っ子男子で、姉たちとは16歳と15歳離れていた。石破内閣に対する支持率が低かった背景には、そうした元首相の生まれが関係していたに違いない。
末っ子として育ってくれば、人に甘えるのは当然だと考えるようになる。甘えん坊でない末っ子という存在は考えられない。
甘え上手であるために、他人からは愛される。したがって、末っ子はアイドルには向いている。
上に兄がいる末っ子男子は、兄に対する反発心が強く、それでスポーツの選手に向いている。サッカーの日本代表などは末っ子がほとんどを占めているはずだ。それは、プロ野球についても言える。プロ野球で第1子が活躍するとしたら、それは各チームのエース・ピッチャーの場合である。江川卓や松坂大輔がまさにそうだった。
第1子が適格である立場とは何か
悠仁親王が秋篠宮家において最初に生まれた子ども、すなわち長子であったとしたら、そのかもしだす雰囲気はかなり違ったものになっていたであろう。究極の甘えん坊にはならず、他の人たちを引っ張っていく人物になったに違いない。
ちなみに愛子内親王の父である今上天皇は、3人兄妹の第1子である。上皇になると、7人姉弟の5番目だが、下には弟と妹がいる。昭和天皇は3人の弟がいる第1子だった。
上皇には、夭折した人物を含め4人の姉がおり、その点ではかなり甘やかされたのではないだろうか。本来なら天皇として慎まなければならない生前退位の意向をもらし、それを実現に向かわせたのも、そうした生まれ順が影響していたのではないか。我慢を強いられる第1子にはできないことだ。
雅子皇后も第1子である。天皇や皇后として人を引っ張っていくには第1子が適格なのだ。それは、ヨーロッパの王室でも認識されていることである。
これもすでに述べたことだが、現在のヨーロッパのほとんどの王室では、男子が王位を継承するのではなく、「男女を問わず第1子が継ぐ」ことが原則として確立されている。
そこには、男女は平等であるという考え方も示されている。だが、国のトップに立ち、国民を率いていく存在としては第1子がふさわしいという考え方も、そこには深く関わっているのではないだろうか。
ヨーロッパなら間違いなく「愛子天皇」
愛子内親王は、一人っ子ではあるものの、天皇家の第1子である。もしも、これがヨーロッパの王室であれば、間違いなく王位を継承する第一位に位置づけられる。
一人っ子は、両親にとってたった一人の子どもであるために、甘やかされるというイメージがあるかもしれない。だが、一人っ子になるのは結果であって、当初の段階では第1子として育てられ、両親もあまり甘やかしたりはしない。
本人が甘える能力を発達させていくのは、上に兄や姉がいてのことである。また、下に弟や妹がいないと、甘やかす経験も持たない。したがって一人っ子は、甘えの世界とは縁のない存在なのである。
また、一人っ子は、上にも下にも兄弟姉妹がいないため、比べられるという体験もしていない。その点で、嫉妬するとか、比べられて落ち込むといった経験もしていない。それが明るさに結びついていく。
唯一欠点があるとしたら、集団になじみにくいということがある。だからこそ、愛子内親王も一時、登校拒否ぎみになったのだろうが、それは過去のことである。
封印された「女性天皇」を実現させる人
女性であり第1子である愛子内親王と、男性であり末っ子である悠仁親王は対照的な生まれである。
その生まれの違いが、悠仁親王には残酷なことかもしれないが、「愛子天皇」待望論を高めることにつながっている。
作詞家の森由里子氏から『新時代のアマテラス 愛子天皇の未来へ』という本をいただいたことがある。女性天皇が長く封印されてきたのだとしたら、それは、皇室の祖先神とされるアマテラスの岩戸隠れに匹敵することかもしれない。
なんとか岩戸を開いて新時代のアマテラスである「愛子天皇」に国民の前に現れてほしい。発言を翻した小川代表は、岩戸を力ずくで開いたアメノタヂカラオの役割を果たすことができたかもしれなかったのだ。