衝撃的だったWBCの天覧試合
「愛子天皇」が誕生したのかもしれない。
私たちは、3月8日、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の対オーストラリア戦での天覧試合で、それを目撃したかもしれないのである。
2月27日の段階で、宮内庁は今上天皇だけが観戦すると発表していたものの、実際には夫妻と愛子内親王の天皇一家での観戦となった。
それは、天覧試合としては画期的なものだった。なにしろ、野球の国際大会の天覧試合は、1966年11月に後楽園球場で行われた全日本対ドジャースの日米野球以来60年ぶりのことだったからである。このときは、昭和天皇が香淳皇后とともに観戦した。
今上天皇夫妻は、2006年と2009年にも東京ドームでWBCを観戦しているものの、それは皇太子時代のことだった。愛子内親王がWBCを観戦するのは今回が初めてだった。
60年ぶりの国際大会での天覧試合ということも画期的ではあるが、実際の場面で起こったことは、ある意味衝撃的なことだった。というのも、今上天皇が愛子内親王に席を譲ったからである。
愛子さまが中心となる「愛覧試合」に
東京ドームの貴賓席において、中央に座ったのは愛子内親王で、その両脇に今上天皇夫妻が座った。天覧試合は、天皇が観覧するからそう呼ばれるわけだが、これでは、愛子内親王が中心になる「愛覧試合」ではないのか。そう思った人もいたことだろう。
今年の1月18日、東京の国技館では天覧相撲が実現した。この時も一家での観戦になり、雅子皇后と愛子内親王は着物姿だったが、中央に座ったのは今上天皇だった。
WBCを観戦するにあたって、雅子皇后と愛子内親王は水色のコーデで臨み、今上天皇も紺と水色のネクタイを着用した。ブルーは、サッカーでも野球でも日本の色とされる。そうした色をあえて身につけたところには、日本チームを応援しようという意思が示されていたが、それが天皇一家に対する注目度をより強めたことも間違いない。
天覧試合は、選手たちにとって晴れの舞台であり、そのせいで硬くなったのか、日本チームは、格下のオーストラリアとの戦いに苦戦を強いられた。
ただ、天皇一家も大きな注目を集めるわけで、一家にとって晴れの舞台であることは間違いない。その舞台に臨む上で、コーデも重要だが、席の並び方はもっと重要である。
髪を切る行為に秘められた決意
愛子内親王が幼い頃の写真を見ると、中央には愛子内親王がいて、その両脇で今上天皇夫妻が見守るという構図が多かった。
しかし、愛子内親王が成人し、大学を卒業して以降、そうした配置にはならなかった。愛子内親王が中心となる着席の仕方が選ばれたのは偶然ではないであろう。その確かな証拠もあるからである。
貴賓席の中央に席を占めた愛子内親王は、これまでの長い髪を切り、肩上のボブヘアにしていた。大学生の時代、それはコロナ禍の時期にあたるが、その頃の髪は短かったものの、それ以降伸ばしていた。今回は、それをばっさりと切ってしまった。記者からの質問には、「35、6センチくらい切りました」と答えている。
長い髪を切るという行為は重要な意味を持っている。若い女性がそうした行為に及べば、昔なら、「何かあったの、失恋でもしたの」などと尋ねられたかもしれない。
私は、宗教の研究を進める中で「通過儀礼」ということに強い関心を持ってきたが、髪を切る行為は男女を問わず通過儀礼としての意味を持っている。代表的なものとしては、元服の際に、男子が幼少期の髪型を切り、成人男性の髪型に切り替えることや、男女を問わず出家の際に髪を切り落とすことが挙げられる。
そうした正規の通過儀礼の機会ではなくとも、決意を表明するために髪を切るということはある。
今上天皇が込めた国民へのメッセージ
その格好の例としては、映画『ローマの休日』において、昼間のローマの街へ一人で出ていくアン王女が、最初に美容院に立ち寄り、そこで、愛子内親王のように、髪をばっさり切ってショートヘアにした場面が挙げられる。
その切られた髪は、王女を演じたオードリー・ヘプバーン自身のものでもあり、初の主演作に臨むという二重の意味合いがあった。だからこそ、髪を切って、鏡でそのことを確認した王女=ヘプバーンの表情は、観客を強く引きつける映画史上の名場面の一つになったわけである。
最初、今上天皇一人が観戦すると発表されたにもかかわらず、一家での観戦にどこでどのようにして変わったのかはわからない。そこには雅子皇后の体調ということも関係しており、正式な発表は当日の午後のことだった。
しかし、雅子皇后の体調がよければ、一家で観戦することは最初から天皇家の中で共有されていたはずだ。そして、貴賓席での座り方も決まっていたことであろう。当日決まることはあり得ないし、愛子内親王を真ん中にということは、今上天皇の了承がなければ実現しない。
むしろそこに天皇の意思が働いていると考えるべきであろう。そこには、天皇からの国民に対するメッセージが込められていたのである。
保守派が警戒する女系天皇への道
今開かれている国会は、高市首相が積極的だということもあり、皇室典範改正へ向けて動き出している。あるいは、それが実現されることになるかもしれない。すでに指摘してきたように、そこに難しい問題があることも事実だし、一方、国民の間では「女性・女系天皇」を容認する声が強く、「愛子天皇」待望論も日増しに高まっている。
こうした事態を今上天皇の側から見たらどうなるのだろうか。もちろん、これから述べることは推測に過ぎないが、私たち一般国民からの見方とはかなり違うはずだ。
皇室典範改正に関して、今もっとも有力なのは、皇族が旧宮家の男子を養子に迎えるという案である。「女性宮家の創設」ということも議論になってはきたが、高市首相を含めた保守派はそれが女系天皇に道を開くことになると警戒している。
こうした皇室典範改正の動きに対して、天皇が何か発言することは不可能である。日本国憲法の規定では、天皇は「国政に関する権能を有しない」(第四条)とされているからである。
つまり、天皇の側としては、事態を静観するしかない。具体的なアクションを起こすことはまったくできないのである。
しかし、国民の間で「愛子天皇」待望論が高まりを見せていることは、今上天皇もはっきりと認識しているはずだ。それは、自分の娘が国民の間で注目され、また愛されていることを意味する。
「愛子天皇」待望論への秘策
私も娘の父親であり、娘が注目されたり、周囲から愛されることがいかに嬉しいかはよくわかる。今上天皇もその点では変わらないであろう。「愛子天皇」待望論は歓迎すべきことで、それを鬱陶しいと感じることはないはずだ。
現在の制度において、次の天皇は秋篠宮で、さらにその次は悠仁親王である。今上天皇にとっては弟の次が甥ということになる。秋篠宮は、自らは即位する意思がないとしているので、実質的に次は悠仁親王ということになるが、今上天皇にとっては、娘よりも甥ははるかに遠い存在である。
できれば娘に自分の後を継いでほしい。しかもそれは、国民が支持するところなのである。
だが、今上天皇が「愛子天皇」実現の方向に動くことも、まったく不可能である。そんな動きを少しでも示せば、憲法にも抵触するわけで、大きな騒ぎになることは間違いない。
ただそこに秘策が存在したのである。
愛子さまが中心となるこれからの天皇家
その秘策が、愛子内親王を真ん中に据えることだったのである。
そうした席の並び方は、事前に今上天皇から愛子内親王に伝えられていたはずだ。急に、今上天皇が愛子内親王に席を譲ったとしたら、愛子内親王は驚いて、強くためらうであろう。
東京ドームで、天皇一家が着席した場面を見ると、雅子皇后、愛子内親王、今上天皇の順に貴賓席に入ってきて、そのまま着席した。座る順は、その前に決まっていたことは間違いない。急な決定ではないのだ。
そのことを事前に聞いた愛子内親王が、それで髪を切ったということであれば、そこに決意が示されていると考えるべきであろう。
これからの天皇家は愛子内親王が中心であるということを、天皇一家は決め、愛子内親王もそれを受け入れたのだ。
それは、今上天皇が愛子内親王に対して席を譲ったことを意味する。天皇が席を譲るとしたら、それは「譲位」したことになる。私たちは、東京ドームの貴賓席において、譲位が実現され、「愛子天皇」が誕生した場面を目撃したことになるかもしれないのである。
愛子さまに託した今上天皇の思い
今上天皇はとても元気で、健康面で問題を抱えているとはまったく伝えられていない。ただ、即位したのは59歳の時のことで、歴史上2番目となる高齢での即位であった。最高齢は奈良時代末期の光仁天皇で、そちらは61歳での即位だった。
現在の今上天皇は、2月23日に66歳になった。長寿社会が実現した現在の日本では、まだ若い部類に属するかもしれないが、すでに高齢者の仲間入りを果たしていることも事実である。サラリーマンなら定年を迎えている。
古代の社会では、王の身体の衰えは、国家の衰退であるという考え方があり、老いた王を殺す「王殺し」の風習があったとも言われる。
それは歴史上の事実ではなく、伝説である可能性もあるが、今上天皇としても自分の年齢は気になるところで、できるならば、若い世代が日本を引っ張っていくべきだという思いもあるだろう。
今の上皇が即位したのは55歳のときで、昭和天皇になると25歳で即位している。もっと自分も早く天皇に即位していれば、「令和流」と呼べる新しい天皇のあり方を模索できたであろう。今上天皇にはその思いもあるはずだ。
その思いを愛子内親王に託した。東京ドームで起こったことは、そういうことかもしれない。私たち国民は、これから天皇一家がどういった並び方、座り方をするのか、それに是非とも注目し、その意味を考えなければならないのである。