予約困難店よりも贅沢な場所
昔から富裕層の世界では、別荘に人を招いたり、自宅でおもてなしをする文化は当たり前に存在していた。
軽井沢の話などその典型だろう。
「夏はうちに来いよ」という一言が、最上級の招待状だった時代がある。
そして上の上に行くと、発想がぶっ飛んでくる。
私の知人に、都内タワーマンションのペントハウスをワンフロア丸ごと所有している男がいる。
その中に、東京で指折りの料亭出身の料理人を専属で雇い、割烹、レコードバー、スパまで併設している。
もはや家ではない。“個人経営の高級施設”だ。
こうした派手な富裕層が一定数存在するのも、紛れもない事実である。
これは少々度を越している。
だが、ここ数年で「これははやり始めているな」と感じるのが、居住用マンションに業務用クラスのキッチン設備を入れて、半分レストランのような“サロン空間”を作るスタイルだ。
コンセプトは極めてシンプル。
予約が取れないレストランにいる料理人、それに準ずる腕を持つシェフ、あるいは世界で活躍する料理人――こうした人たちを自分のネットワークで呼び、自分の場所で会を開く。
つまり「席を取る側」ではなく、「席を作る側」に回るのだ。
「予約困難店のスペイン料理「acá(アカ)」や鳥しきの席が取れた」「四谷の三谷の大将と知り合いだ」――そういうことでマウントを取り合う世界がある。
更に、会員制や紹介制をうたい、そもそも一見さんお断りの店に行けることが自慢な人もいる。
こうした港区界隈で横行する“マウント文化”とは一線を画す発想だ。
もちろん、予約困難店の料理や料理人を軽視しているわけではない。むしろ尊敬している。普通に凄い。
しかし、味の判断もできないのにブランドだけを追いかけている人たちと、同じテンションで並びたくない。これは正直な本音だ。
理由はそれだけではない。
「間人ガニ? いや、富山の漁師が一番だと思う」
実際に知人が開いた会を見てみよう。
冬には「最高級ズワイガニを活きたまま用意して楽しむ会」や「日本全国のブランド牡蠣を食べ比べ」。夏には「最高級の花咲蟹を活きたまま取り寄せる会」。
また、人数が多い場合やビーガン対応が必要なときは、スペシャルオーダーのケータリングを手配することもあるという。
契約農家から仕入れたオーガニック食材と季節の野菜を中心に、細かくヒアリングを行った上で厳選した食材のみで構成される。
「食べた後に体が軽くなる」「翌日のエネルギーが違う」――そんな“食を通じたセルフケア”を重視する富裕層には、身体をいたわる食事こそが究極のラグジュアリーなのである。
なぜ、予約困難店ではなく、自宅のサロンでゲストをもてなすのか。
「蟹の話は象徴的だ」と彼は言う。
間人ガニ。もちろん最高級品である。だが「全部食べ尽くした上で」一番良いと思えるのは、富山湾の漁師――取れない場合は金沢の漁師――が「これが一番いい」と太鼓判を押したズワイガニだという。
興味深いのは、値段だ。間人ガニは高級なものだと、1杯20万円を超えるものもある。しかし、富山のは漁師ルートで、およそ3万円。ただし、漁師とのルートがなければ、たとえ25万円出しても手に入らない。
“ブランドや金額の高さ”と“味の良さ”とは、必ずしも一致しないのだ。
だからこの会には、ブランドに流されず、味の判断ができる人間だけを呼ぶ。参加者は皆、感動する。そして何年経っても「いやあの蟹はうまかった」と語り継ぐ。
結局これは、食べ物以上に「体験を共有する場」なのだ。
京都は本気で予約が取れない
食体験を共有したいなら、お店でいいじゃないか、と思われるかもしれない。
しかしここにはさまざまな制約がある。
まず、予約が取れない。
京都は特に深刻だ。どれだけ大将と親しくても、である。
京都の路地裏に佇む、わずか八席の割烹。暖簾には店の名すらない。知る人ぞ知る、という言葉すら生温い。知り得る者のみが知る。そんな店だ。
予約は電話のみ。何度か通っているが、優遇はない。ネット予約という現代の便利さは、この店には届かない。11時ちょうど。1カ月先の2時間を求めて、何百という想いが殺到する。
プルルル、プルルル――
繋がらない。
指は自動的にリダイヤルを押し続ける。額に汗が滲む。心臓が、店の包丁のリズムのように刻む。
30分間、話し中の音だけが耳を支配する。
「はい、○○でございます」
静かな、しかし凛とした声。私は一瞬、言葉を失った。繋がった――。この瞬間を、どれほど待ち焦がれたことか。
「あ、あの、予約を……」
「申し訳ございません。本日分は、すべて埋まってしまいまして」
受話器の向こうで、祇園の鐘が遠く響いた気がした。
京都という街は、待つことを教えてくれる。
石庭の苔が何百年もかけて育つように。鴨川の水が絶え間なく流れ続けるように。この街の名店は、焦る心を静かに諫める。
「また来月、お電話くださいませ」
その一言に、私は深く頭を下げる。電話の向こうの、見えない相手に。
そしてまた、カレンダーに小さく印をつける。来月の、あの日に。
……京都の予約困難店とは、つまり、待つことそのものを味わう店なのかもしれない。
そんな状況なので、まず希望の日程に、希望の店をおさえるというのは至難の業だ。
奇跡的に予約がとれたとしても、予約時間、規律通りに一斉スタートの店も増え、自分のペースで楽しみにくくなっている。
さらに言えば、そんな店で、器や演出、細部の作り込みまで「自分好みで突き通す」など到底無理な話だ。もちろん、冒頭で紹介した、漁師にもらったカニを持ち込むなんて“わがまま”は通るわけもない。
自分でもてなすとなれば、食中毒リスク、衛生管理、責任問題――気をつけることは山ほどある。労力だってかかる。万人に勧められる世界ではない。
しかし逆に言えば、シェフのネットワークがあり、食材のルートがあり、ちゃんと運営できる人間であれば、サロンを一つ持つのは極めて合理的な選択なのだ。
「断絶された空間」という最高の価値
「おもてなしサロン」が流行する背景、もうひとつの理由は「プライバシー」だ。
2020年代に入り、富裕層の情報漏洩への警戒心は格段に高まった。レストランという不特定多数の視線にさらされる場所より、完全プライベート空間が選ばれるようになった。
もちろん、信頼できるプライベートシェフを雇うケースも増えている。
だが、最も親しい友人との会では、あえて「誰も介在させない」選択をする人も多い。
シェフもソムリエもいない。気心の知れた仲間だけで、好きなワインを開け、えりすぐりの食材を囲む。記事「前編:フォアグラでもトリュフでもない…富裕層のホムパで500万円ワインの隣に並ぶスーパーで150円の"おつまみ"」でも触れたが、時には袋から出しただけのチーズとナッツをつまむだけなんてこともある。
「家に呼ぶ」は、実は難易度が高い
理想は家に呼ぶことだ。
だが現実には、家というものは生活感が出る。
しかも日本の住宅事情はシビアで、数億円するタワーマンションでも「トイレが一つ」という致命的なケースが珍しくない。ゲストを招いているのにトイレに生活感が漂う――もてなしとしては、もはや破綻している。
だから結局、こうなる。
家だけど家じゃない。生活空間ではないけれど、プライベート感はある。要するに、“グルメおじさんの隠れ家”のようなノリで空間を作る方が、よほどスマートなのだ。
特に海外VIPを迎えるときには、その価値がわかりやすい。
ある知人は、自宅があるわけでもないのに、わざわざ京都に70平米のマンションを購入し、基地を作った。リノベーションだけでも4000万円あまりかかったという。
6人が着席してゆったりできる空間――頑張れば25人ほど呼べる場所を作った。住むためではない。もてなすためだ。(もっとも、港区女子は銀座の予約困難寿司に連れて行った方が1億倍喜ぶのだが。)
誰にも邪魔されず、誰の目も気にしない。
この「断絶された空間」こそが、現代において最も高価な価値といえる。
こうした光景を見るたびに確信する。予約困難店に行くこと自体が贅沢なのではない。自分の空間で、自分の美学で、人をもてなすことこそが、いちばんの贅沢なのだ。
「もてなしの本質」という新しい贅沢
ここには、私たちが学ぶべきヒントがある。
25万円を払っても手に入らない最高のカニが、富山の漁師から3万円で届く。ブランドではなく、「これが一番いい」という漁師の太鼓判こそが、本当の価値を決める。
契約農家のオーガニック食材をふんだんに使ったスペシャルオーダーのケータリング。「食べた後に体が軽くなる」――そんな体験は、ミシュランの星の数では測れない。
予約困難店に1カ月前の電話回線に殺到する何百という想い。繋がった瞬間の「申し訳ございません、本日分はすべて埋まってしまいまして」という静かな声。京都で待つことを学ぶのも一興だが、待たなくていい方法がある。
自分の空間を持つこと。自分のネットワークで料理を手配したり、料理人を呼んだりすること。すべて自分の美学で、自分のペースで。
そして何より、その場に招いた人間だけが「いやあの蟹はうまかった」と何年も語り継ぐ。食材以上に、体験を共有した記憶が残る。
断絶された空間。誰の目も気にしない時間。気心の知れた仲間だけの夜。これこそが、現代において最も高価な価値なのだ。
予約困難店に行くことが贅沢なのではない。「席を取る側」から「席を作る側」に回ること。自分の場所で、好きな時間に、自分が本当にうまいと思うものを、本当に招きたい人だけに振る舞うこと。
それが、なによりの贅沢なのである。