婚活ドキュメンタリーで盛り上がるSNS
婚活をテーマにしたドキュメンタリー番組が放送されるたび、SNSでは出演者たちの年収、年齢、外見、価値観などについて、驚くほどの熱量で議論が交わされます。直近ではフジテレビの「ザ・ノンフィクション」で東京の結婚相談所に通う年収370万円の男性のドキュメンタリーが話題になりました。「この人いい人なんだけどな」「この条件だと厳しいよね」――視聴者は画面の向こうの人々を、まるで審査員のように品定めします。
そもそも、なぜこれほどまでに他者をジャッジすることが、当たり前の光景になってしまったのでしょうか。
結婚の有無で「正常」「異常」をジャッジする時代
先日、X(旧Twitter)で、「30歳を超えて独身なのは、性格などに難があるからだと言われた」という趣旨の発信が大きな反響を呼んでいました。年齢は年収と同じくらい議論を呼ぶテーマの一つです。ちなみに、現在放送中の大河ドラマ「豊臣兄弟」でも注目される豊臣秀吉が寧々と結婚したのは、25歳頃とされています。10代での結婚が一般的だった当時としては、「晩婚」です。
時代によって「適齢期」の基準はありますが、絶対的なものではありません。しかし現代においては「30」という数字が、人を追い詰め、ジャッジされる基準になってしまっています。
その背景には、長年刷り込まれてきた「年齢という呪縛」があります。例えば、「女は27歳が一番売れ時よ。そこを超えると値崩れする」――2000年のドラマ「やまとなでしこ」で松嶋菜々子さん演じる桜子が放ったセリフを今も記憶している方も多いでしょう。
驚くべきことに、厚生労働省の統計によれば、現在も実際に最も多くの人が結婚している年齢は男女ともに27歳(最頻値)です。平均初婚年齢は男性31.1歳、女性29.7歳と30歳前後ですが、社会の認識を形成しているのはこの「27歳というピーク」です。もちろん、30代で結婚する人は今や珍しくありません。
それにもかかわらず、この27歳という数字が最頻値として可視化されていることで、そこから外れた瞬間に、周囲は「みんなができることができない人」というレッテルを貼ります。しかし、それは本人の資質の問題ではなく、単なる「統計上の外れ値」に対する偏見に過ぎません。ただの数字が、いつの間にか「正常」と「異常」をジャッジする境界線として機能してしまっているのです。
「いい年して独身=性格に難あり」ではない
年齢の議論をする際に現実問題として無視できないのは、「子どもが欲しいかどうか」という点です。子どもを授かり家庭を築くことを望む人々にとって、年齢が持つ重みは抗いようのない事実です。ですが、そうした「時間的制約」があることと、その人を「性格に難がある」を結びつけるというのは、全くの別問題です。
そう言いながらも、私自身も年齢による「普通」のジャッジを無意識に行っていました。
10年ほど前、筆者がこの業界に入って最初に出会った30代半ばのカップルがいました。お二人とも大手企業に勤める、知性と誠実さを備えた方々でした。外見もまた、非常に整った美男美女という印象でした。
そのため、当時の私は、「これほど素敵な方たちが、なぜこの年齢まで独身だったのか」と不思議に思っていました。すなわち「30代半ばなら結婚していて普通」という画一的な物差しで無意識にもお二人をジャッジしてしまっていたのです。彼女が口にした「仕事に打ち込んでいるうちに、この歳になった」という言葉。それはレアケースなどではなく、仕事という「正解」のある世界で誠実に走り続けてきた結果に過ぎませんでした。
こうした、私自身が抱いていたような「小さな偏見」の積み重ねこそが、知らぬ間に「普通」という名の境界線を引き、そこから外れた人々を審査員席から品定めしていたのだと、今では深く恥じています。
出会いは自己責任、結婚は贅沢品になってしまった
かつての日本には、職場結婚や地域のお節介といった「出会いのインフラ」がありました。恋愛が苦手な人でも、仕組みによって家族へと繋がれるシステムがあったのです。
しかし、その仕組みが消滅した現代、出会いはすべて「自己責任」のサバイバルとなりました。膨大な時間と感情を投下する自由恋愛を通過しなければ辿り着くことが難しくなった今、結婚はもはや、時間や感情のコストを自ら捻出しても得ることが難しい「ラグジュアリー(贅沢品)」へと変質してしまったのです。
この「仕組みの消滅」という問題を、世間は都合よく「本人の魅力や性格の欠落」という個人問題にすり替えています。もちろんマッチングアプリという便利なツールはあります。実際に、このツールを使いこなし、幸福を掴む人々も多く存在します。
その一方で、常に「選別」の目に晒され続け、果てしないセルフマーケティングの労力を強いられている人もいます。かつてのインフラは、こうした時間的・心理的負荷を肩代わりしてくれていたのです。
「あいのり」は恋愛の「無駄」を丁寧に描いていた
そして、この「出会いのシステム」が消えた空白に入り込んだのが、SNSによる「可視化されるジャッジ」です。
近年、芸能人やモデル、あるいは一般人が出演する恋愛リアリティーショーが、次々と制作されています。そこでは出演者の魅力が最大限に引き出され、多くの視聴者を惹きつけるエンターテインメントとして成立していますが、同時に起きてしまったのは、恋愛という極めてプライベートな領域の「可視化とマニュアル化」です。
恋愛リアリティーショーの先駆けといえば、1999年に放送開始した「あいのり」を思い出す方も多いでしょう。当時の番組には、不器用な若者たちが長い旅路の中で悩み、失敗し、その「無駄」を通して成長していくプロセスを視聴者も共有する、いわば「共感のインフラ」としての機能がありました。
現在の恋愛リアリティーショーは「最短ルート」しか描いていない
しかし、近年の恋愛リアリティーショーの多くは、限られた時間の中で「誰が選ばれるか」という「結果」と、そのための「戦略や駆け引き」に重きが置かれます。
エンタメである以上、劇的な展開や結果に重きが置かれるのは当然のことです。しかし、そこには「なぜダメだったのか」という泥臭いコミュニケーションのプロセスが描かれることはほとんどありません。こうした「正解」を求める空気は、SNSを通じて「恋愛の攻略法」の質も変えていきました。
恋愛の攻略法自体は昔から雑誌などでも特集されてきました。しかし、かつての攻略法が「どうすれば意中の相手に好きになってもらえるか」という関係構築を説いていたのに対し、現代の攻略法は、「どうすれば最短ルートで正解にたどり着くか」といった効率的な選別に変わってしまいました。
さらに深刻なのは、演出された「極端な成功例」が、パブリックイメージを乗っ取り、誠実なマジョリティの評価さえも歪めてしまっている点です。番組での洗練された振る舞いがSNSで瞬時に「正解ムーブ」としてマニュアル化され、対話を通じて埋めていくはずの「不器用さ」や「ズレ」は、「ハズレ」や「地雷」とされてしまいます。
影響は婚活の現場でも表れています。お見合いや面談の場で、目の前の相手と向き合うのではなく、「ネットにこう書いてありました」と、SNSや攻略サイトの情報を持ち出すケースが増えているのです。「効率的に正解を見つけよう」とすればするほど、目の前の相手を見る力を失い、遠回りになってしまっています。
「特等席」でジャッジする若者が自分自身を苦しめている
私たちはいつから、他者の人生を「結果」だけで採点する審査員になってしまったのでしょうか。
画面越しに「誰かの人生」を見届け、特定の言動を「正解」「不正解」とジャッジする。ただその瞬間はエンタメとして受け取っているだけなのかもしれません。しかし、そこで気づかないうちに積み上げられた無数の「判定」は、いつの間にかネット上の強固な「普通」を作り上げています。
画面の中の可視化された成功例はネットのなかで正解を生み出し、私たちを常に「選ぶ側」の席に座らせようと誘惑します。
他者を厳しく審査すればするほど、その刃は知らぬ間に自分にも向けられていくのです。「この時代はこうあるべき」「これは普通ではない」――。ネットが作り上げた「正解」の基準が、いつの間にか自分を追い詰め、失敗や不器用さを許さない「透明な檻」となって自分を閉じ込める。他者を審査する特等席に座っているつもりが、実は自分自身が「正解」という名の呪縛から一歩も動けなくなっているのです。
情報の氾濫によって可視化された「正解」を追い求め、他者も自分も裁き続ける。その効率化の果てに待っているのは、合格者が出ない、生きづらい世の中です。
「審査員」という役割を降りることは、容易ではありません。しかし、皮肉にもその「非効率」の先こそが、「より効率的な答え」に辿り着くための、唯一の近道なのではないでしょうか。