「愛子天皇」待望論はなぜ高まるのか。皇室史に詳しい島田裕巳さんは「天皇に即位する存在の悠仁親王が、それにふさわしい帝王学を授かっていないという不安が影響している」という――。

秋篠宮家父子ともに関心を寄せるビオトープ

「愛子天皇」待望論の高まるなか、今回は、悠仁親王をめぐる「帝王学の不在」の原因について考えてみたい。

2月4日のこと、秋篠宮家の悠仁親王は、父親の文仁親王とともに東京国立博物館で開かれた「全国学校・園庭ビオトープコンクール」の発表大会を参観に訪れた。

全国学校・園庭ビオトープコンクール2025の発表大会に出席された秋篠宮さまと悠仁さま=2026年2月8日午後、東京・上野の東京国立博物館平成館(代表撮影)
写真提供=共同通信社
全国学校・園庭ビオトープコンクール2025の発表大会に出席された秋篠宮さまと悠仁さま=2026年2月8日午後、東京・上野の東京国立博物館平成館(代表撮影)

ビオトープとは、自然の生態系や野生生物の生息・生育する空間のことである。このコンクールは、幼稚園から大学までビオトープの普及に務めているところが応募するものである。

悠仁親王が、このコンクールに臨んだのは、昨年に続いてである。現在は筑波大学の生命環境学群生物学類で学んでおり、生物学の観点からビオトープには大いに関心があるはずだ。父親の秋篠宮も、鳥類学、とくに家禽類の研究では博士号を得ており、関心は息子と同様である。

悠仁親王は、今年初めて参加した「歌会始の儀」にトンボを詠んだ歌を寄せたように、トンボについては強い関心を持っている。まだ高校生だった2024年8月には、国立京都国際会館で開かれた「第27回国際昆虫学会議」で、皇居内のトンボの生態について研究した「皇居のトンボ相」というポスター掲示を発表している。

学術論文の筆頭者になった高校時代の悠仁さま

悠仁親王のトンボについての研究は、「赤坂御用地のトンボ相 多様な環境と人の手による維持管理」という共同での論文にもまとめられている。それは『国立科学博物館研究報告 A類(動物学)』(49巻、2023年4号)に掲載されている。論文が審査を経ることを「査読」というが、これは審査員による査読を経た立派な学術論文である。しかも、悠仁親王が論文の筆頭者になっている。中心となった研究者ということだ。

高校生が学術論文を発表することはめったにないが、それは悠仁親王にしかできない研究である。というのも、赤坂御用地は、悠仁親王が生まれてからずっと住んできた場所であり、調査は2012年から行われている。その時点で悠仁親王は6歳だった。

赤坂御用地のトンボについては、すでに他の研究者が調査を行っていた。しかしそれは、2002年から2004年にかけてで、それからは行われていなかった。悠仁親王の調査は、そうした先行研究を補うものとなった。

この論文はネット上で公開されており、誰もが目を通すことができる。赤坂御用地の水域や、そこに棲息するトンボ類がカラー写真で紹介されている。トンボに関心を持つ人なら、この論文は必見だ。何しろ、前回の調査で報告されていなかったトンボや絶滅危惧種が多く紹介されているからである。

赤坂御用地は、絶好のビオトープである。悠仁親王がそこに住み続けてきたことが、トンボへの関心を生み、生物学を研究する動機になっている。悠仁親王が筑波大学に進学した理由も間違いなくそこにあるのだが。

生物学一家でもある天皇家の継承

生物学の研究は天皇家の伝統でもある。よく知られているように、昭和天皇はヒドロ虫(ヒドロゾア)類や粘菌の研究を行い、相模湾では新種を発見している。皇居内には昭和天皇が研究をするために、「生物学御研究所」が設けられたほどだった。これは現在、東京・立川の国営昭和記念公園に移築されている。

皇太子時代の昭和天皇(東京・赤坂御所の生物学研究室にて)
皇太子時代の昭和天皇(東京・赤坂御所の生物学研究室にて)(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

昭和天皇の生物学への関心は現在の上皇にも受け継がれ、ハゼ類の研究を行ってきた。さらには秋篠宮にも、そして悠仁親王にまで伝えられてきた。その面でも、悠仁親王が生物学を志すのは自然である。天皇家は生物学一家でもあるのだ。

しかも、昭和天皇は、皇居や赤坂御用地をビオトープにする上でも決定的な貢献をしている。皇居の場合、江戸時代には江戸城だった。赤坂御用地も紀州徳川家の江戸中屋敷だった。したがって、どちらの景観も現在とはまったく異なっていた。

戦前の吹上御苑ふきあげぎょえん内には9ホールのゴルフ・コースもあり、やはり今とは異なる。それを大きく変えたのが戦後の昭和天皇で、「武蔵野の姿に戻したい」という意向の下、皇居は大きく変貌した。昭和天皇の有名な言葉として、「雑草という草はない」(最初に植物学者の牧野富太郎が言ったともされる)があるが、自然を深く重んじていた。その結果、現在の皇居には約6000種の動植物が生息している。

昭和天皇には“息抜き”であった生物学

一方、赤坂御用地のほうは、上皇夫妻の仙洞せんとう御所をはじめ秋篠宮家や他の宮家の屋敷があり、また園遊会の会場にもなるため、人の手がかなり入っている。それでも、日当たりがよく、明るい環境を好む植物や昆虫が数多く見られる。

その点では、昭和天皇の意向によって、皇居と赤坂御用地には豊かな自然が戦後になって生み出されるようになり、それが悠仁親王のトンボ研究に道を開くことになったのである。

しかし、悠仁親王は、アカデミズムの世界で生きていく人間ではない。

将来において天皇に即位する存在である。となると、果たして生物学者への道を歩むだけでよいのか、どうしてもそうした疑問が湧いてくる。

最近、古川隆久氏による『昭和天皇 「理性の君主」の孤独』という中公新書の増補版が刊行された。そこでは昭和天皇の生涯がつづられているが、生物学に関連することとしては、1929(昭和4)年に巡幸した際、和歌山県の田辺で粘菌の研究で知られる在野の研究者、南方熊楠みなかたくまぐすと学問談義を交わしたことくらいしか出てこない。昭和天皇にとっての生物学の研究は息抜きとしての性格を持っていたわけだが、では、悠仁親王にはどうなのだろうか。

「東宮御学問所」で昭和天皇が受けた帝王学

昭和天皇』第1章「思想形成」の部分では、昭和天皇が受けた帝王学について詳細に述べられている。

昭和天皇は学習院初等科を修了したのち、中等科には進まず、高輪の東宮御所内に設けられた「東宮御学問所」で5人の学友と学ぶことになった。

その際、重要な科目になったのが倫理学だが、その教員を誰にするかで手間取った。最終的に、国粋主義の立場から言論や教育活動を行っていた杉浦重剛じゅうごうが選ばれた。いかに、倫理学の講義に力が入れられたかは、それが全部で278回にも及んだところに示されている。

古川氏によれば、「杉浦は、天皇が統治するという日本の国のあり方は、個々の天皇の努力によって国民を感化し、かつ国民からの支持を得てこなければ続くことはなかったと教えた」という。他にも重要な人物が学問所で講義を行い、それが昭和天皇の思想形成に多大な影響を与えたのである。

現在の上皇の場合にも、戦後、アメリカ人のエリザベス・ヴァイニング夫人が家庭教師となり、平和主義とキリスト教的倫理を学んでいる。彼女を家庭教師にしたのは昭和天皇の意向だった。また、元慶應義塾長の小泉信三からは、イギリスの『ジョオジ五世伝』(ハロルド・ニコルソン著)をテキストに、立憲君主制における君主の役割を学んでいる。

皇太子時代の上皇とヴァイニング夫人(東京・小金井の東宮御仮寓所にて)
皇太子時代の上皇とヴァイニング夫人(東京・小金井の東宮御仮寓所にて)(写真=朝日新聞社「朝日歴史写真ライブラリー 戦争と庶民1940-1949 第5巻」より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

「徒弟修行」に変わりゆく現在の帝王学

こうした帝王学は、それを授けられる本人が望んで行われるものではない。周囲がお膳立てをしなければ実現できない。それが、今上天皇の段階になると、こうした機会は与えられなかった。学習院で学んだのち、イギリスに留学してオックスフォード大学では、日本では得られない自由な環境で勉学の機会を持ったが、特別に帝王学は授けられていない。

現在の天皇の代になって、帝王学は「徒弟修行」のようなものに変貌したと言えるかもしれない。職人や商人、あるいは伝統芸能の演者などは師匠に弟子入りし、その背中を見ながら学んでいく。現在の天皇は、上皇や上皇后の背中を見ながら、象徴天皇制における天皇の役割を学んできたのである。

昭和天皇の場合、その在位期間の前半は、象徴天皇制の下にはなかった。だからこそ、厳しく帝王学を仕込まれたわけである。上皇の場合には、戦後に時代が大きく変わるなかで、それに対応できる素養を磨く帝王学が必要だった。しかし、現在の天皇の時代になると、象徴天皇制が定着し、あえて外部の教育者から帝王学を授かる必要がなくなったとも考えられるであろう。けれども、ことはそれほど簡単ではない。

悠仁親王は誰の背中を見て育つか

ただそうなると、天皇や皇后の背中を見ながら皇族としての務めを果たしていくということが、次の天皇には求められることになる。

本人は望んでいないが、次代は秋篠宮である。秋篠宮も今上天皇と同様に、上皇夫妻の背中を見ながら育っている。

これが悠仁親王になると、父親は秋篠宮で今上天皇ではない。今上天皇と行動をともにする機会はほとんどない。宮中祭祀に参列し、今上天皇が一年でもっとも重要な新嘗祭にいなめさいを営む姿を間近で見る機会はあり、それは重要なことだが、かなり限定されている。

悠仁親王が大学生活を送っている間は、公務の機会も大学が休みの期間に限られる。学年が進めば、忙しさは増す。その後、留学すれば、公務から長期間遠ざかる。

「愛子天皇」待望論がさらに高まるワケ

問題は、留学が修士課程で終わるかどうかである。生物学者になることを運命づけられたかのような歩みをしてきたことからすると、本人は博士課程への進学を希望するのではないだろうか。両親はどちらも博士号を持っている。イギリスで博士号を取得した皇族としては、すでに三笠宮家当主の彬子女王がいる。

留学が長くなれば、公務からは遠ざかり、天皇の背中はますます遠くなる。

果たしてそれでいいのか。それは本人にとってもマイナスになるかもしれない。悠仁親王に対する帝王学の“不在”は、真剣に考慮されてしかるべきである。

その間に、愛子内親王は天皇夫妻の背中を見ながら公務をこなしていくわけで、そこでも差が生まれる。それは「愛子天皇」待望論をさらに高める方向に作用する。

悠仁親王が幼少時代から関心を寄せてきたトンボの古名は「秋津」で、「秋津島(洲)」は日本の本州の古代の呼称とされてきた。トンボについての関心が、日本そのものへの関心に発展する。そういう道筋をつける手立てを講じておく必要があるのではないだろうか。

天皇皇后陛下並びに愛子内親王殿下(2022年12月23日)
天皇、皇后両陛下と長女の愛子さま(写真=外務省/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons