愛子内親王への国民の期待は今後どうなるのか。皇室史に詳しい島田裕巳さんは「ラオス訪問を果たしたことで、『愛子天皇待望論』はこれまで以上に高まりを見せている。3年先に見込まれるブラジル訪問が、その決定打になる」という――。

成功した愛子さまの初の海外訪問

愛子内親王は、単独での初めての海外訪問先であるラオスから無事に帰国した。

途中、ラオスの民族衣装を身にまとう場面があり、ラオスの副首席は、その姿を見て、「キレイだ、美しい」を4回連発し、通訳がどう訳していいのか困惑する場面もあったという。

帰国後には、今回の訪問について、「ラオスの国民の皆様の温かい人柄やお心遣いにより、充実した心に残る訪問となりました」と語り、「日本ではできないような、多くの貴重な経験をさせていただいたことも有り難く思っております」という感想を述べている。

愛子内親王の最初の海外訪問は成功したことになる。これで今後、愛子内親王が海外を訪れる機会も増えていくことだろう。次の訪問先は決まっていない。だが、日本の皇室と深い縁で結ばれている王室があるヨーロッパを、さほど遠くない将来に訪れるであろう。

ラオスでは、現地の民族衣装を身にまとっただけではなく、副主席主催の晩餐会では、菊の模様の入った振り袖で臨んでいる。これがヨーロッパでのことになれば、ローブデコルテを身にまとい、頭上にはティアラを着けることになるのではないだろうか。

宿泊先のホテルに到着し、出迎えを受けられる愛子さま=2025年11月17日、ラオスの首都ビエンチャン(代表撮影・共同)
写真提供=共同通信社
宿泊先のホテルに到着し、出迎えを受けられる愛子さま=2025年11月17日、ラオスの首都ビエンチャン(代表撮影・共同)

愛子さまのティアラに秘められた意思

ただこれは毎年報じられることでもあるが、愛子内親王自身はティアラを製作していない。成年を迎えた時期がコロナ禍に当たっており、そこから当面は新調しない方針を明らかにしてきた。

しかし、愛子内親王も、新年祝賀の儀など公的な場面でティアラを着ける機会がある。その際には、2005年に結婚して皇室を離れた叔母の黒田清子さやこ(清子内親王)さんのティアラを借用している。黒田さんは、内親王であった時代の1989年にそのティアラを新調した。

皇室を離れてしまえば、ティアラを着ける機会はほとんどないであろう。その点で、愛子内親王が借用し続けるのも合理的と言えるが、そこにはもうひとつ重要な意味があるように思われる。

というのも、上皇夫妻の長女として生をうけた黒田清子さんは、皇族女性による皇室外交のパイオニア的な存在だからである。そのことはあまり認識されていないかもしれないが、彼女は、「ガラスの天井」を突き破った一人である。

愛子内親王が黒田さんのティアラを借用し続けているのも、その精神を受け継ごうという意思があるからではないだろうか。

22カ国を公式訪問した皇室外交の「華」

では、黒田さん以前の内親王の場合はどうだったのだろうか。昭和天皇には5人の皇女が誕生し、そのうち、第2皇女は最初の誕生日を迎えないまま夭折ようせつしている。

ただ、そうした内親王たちは皆、若い年齢で結婚している。第1皇女は10代で結婚し、他も、成人してすぐに結婚している。結婚すれば、皇室を離れるわけで、昭和天皇の皇女たちが海外を訪問し、皇室外交の一端を担うことはなかった。

その代わりに女性として皇室外交を担ったのは、外部から皇室に嫁いできた親王妃たちであった。会津松平家出身の秩父宮妃勢津子はアメリカ生まれで英語が堪能だった。徳川家出身の高松宮妃喜久子も活発に海外と交流した。

黒田さんの場合、結婚して皇室を離れたのは36歳の時である。最初の海外訪問は学習院大学在学中の20歳のときで、国王であるボードゥアン1世夫妻の招待でベルギーを訪れている。それ以来、16年にわたって皇室外交の「華」として活躍した。黒田さんは、清子内親王であった時代に14回公式訪問し、22カ国を訪れている(立ち寄りは除く)。

2001年には、「日本とウルグアイとの修好80年」ということでウルグアイを訪れる予定になっていたが、アメリカでの同時多発テロ勃発の余波で延期になっている。ただ、その際には記念切手に黒田さんの肖像が使われた。ウルグアイには2003年にホンジュラスとともに訪れているが、それが最後の海外訪問になった。

内親王の外交訪問先の共通点

黒田さんの外交訪問先としては、ヨーロッパと南北アメリカ大陸が多く、アジアについては、1994年に外国事情視察のためタイを訪れただけである。

南北のアメリカ大陸を多く訪れたのは、そこには日本からの移民が多く、日系人が多く住み続けているからである。最近では、海外からの日本への移民が問題として取り上げられるようになってきたが、かつての日本は移民を送り出す側だった。

それも、日本が国として貧しかったからで、移民先としてはアメリカ大陸が多かった。現在では、海外からの移民を制限すべきだという声も上がっているが、その際には、かつての日本のことを思い起こす必要がある。

黒田さんは、1990年にアメリカ合衆国を訪れ、ロサンゼルスで行われた日系移民の「二世週日本祭」50周年記念祝賀行事に出席している。二世週日本祭は、ロサンゼルスにある日本人街、リトルトーキョーで毎年8月に行われる祭典である。また、1999年にペルーとボリビアを訪れたのも、それぞれの国で開かれた日本人移住100周年記念式典に招待されてのことだった。

ロサンゼルスにある日本人街、リトルトーキョー
ロサンゼルスにある日本人街、リトルトーキョー(写真=FASTILY/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

女性皇族初の単身外交を担った清子内親王

黒田さんの海外訪問として特に注目されたのが1995年のブラジル訪問だった。これは、日本ブラジル修好100周年記念式典に招待されたためだった。

重要なのは、独身の女性皇族が単身で海外を訪問するのは、これが初めてだったことである。

ブラジルは、日本からの移民が最も多い国で、現在では200万人の日系人が生活をしている。ブラジルへの移民がはじまったのは1908(明治41)年からのことで、その後の100年でその数は26万人に及んだ。その子孫が増えたわけである。

戦前は出稼ぎを目的としてブラジルに渡る日本人が多かった。ところが、コーヒー園などで過酷な労働を強いられ、その後も長い間苦難の日々が続いた。この時期の移民は、日本の国に捨てられた「棄民」であるという評価も存在した。

深刻だったのは、戦後、「勝ち組」と「負け組」とが対立したことだった。日本は第2次世界大戦に敗れたわけだが、ブラジルは日本からは遠く、十分に情報が行き渡らなかったこともあり、日本の敗戦をデマとして捉える日系人が少なくなかった。そこで、戦争に勝ったと考える勝ち組と、負けたとする負け組が対立するようになったのだ。今では考えられないことだが、対立は暴力さえ伴い、日系人社会に激しい混乱をもたらした。

皇族がブラジルを訪れることの意義

1950年代になると、こうした勝ち組と負け組の対立は収束にむかい、戦争中途絶えていた移民も再開される。この時代、日本は人口が急増しており、移民することに活路を見いだす日本人は少なくなかった。ただし、戦前とは異なり、十分な教育を受け、高い技術力を持っていた当時の日本からの移民は、ブラジルで成功をおさめる確率が高まった。

こうしたブラジルであるからこそ、日系人社会の融和を促進するために、天皇や皇族がブラジルを訪れることが極めて重要になる。とくに、棄民としての扱いを受けた移民一世にとっては、皇室のメンバーと接することによって、その傷が癒やされることになるかもしれないからである。

したがって、1958年に三笠宮夫妻が移住50周年を祝う式典に参列するためブラジルを訪問したのを皮切りに、修好や移住の記念の年には必ずや天皇皇族がブラジルを訪れている。

黒田清子さんがブラジルを訪れたのは、修好100周年という大きな節目の年だった。その映像も残されているが、サンパウロでは開拓戦没者慰霊碑に花輪を捧げ、当時のカルドソ大統領と面会し、記念式典には振り袖で臨んで、挨拶もしている。日系人が入所する老人ホームで入所者の手を握り、言葉をかける姿は印象的だった。

「愛・地球博」(2005年日本国際博覧会)を訪れた清子内親王殿下(当時)
「愛・地球博」(2005年日本国際博覧会)を訪れた清子内親王殿下(当時)(写真=Genppy/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons

ブラジルは国土も広く、皇室のメンバーが訪れた際、過密な日程が話題になることが少なくない。その点で、黒田さんが単身での初の公式訪問先としてブラジルを選んだことは果敢な挑戦だった。その後、秋篠宮家の眞子内親王も佳子内親王も、単身でブラジルを訪問している。

3年後は日本人のブラジル移住120周年

次回の周年記念となるのは、2028年の移住120周年である。その際に、愛子内親王がブラジルを訪れる可能性は十分に考えられる。少なくとも悠仁親王はその時点でまだ学生であり、訪問の可能性は低い。

天皇夫妻が訪れる可能性もないとは言えないが、雅子皇后の体調の問題もあり、夫妻で遠いブラジルを訪れるのは難しいだろう。秋篠宮夫妻は、すでに2015年の修好120周年に訪れている。

移住110周年で訪れた眞子内親王の場合、5州14都市も訪れ、3州の州知事と懇談している。愛子内親王も、相当に過密なスケジュールをこなさなければならない可能性がある。一度訪問した先からは、必ず次もという要望が出されるからである。

愛子さまの試練を支える心のティアラ

記念の年に天皇や皇族が訪れる慣習が確立されているのはブラジルだけである。それだけ日系人の多いブラジルは特別な国である。しかも、黒田さん以来、女性の「内親王」が単身で訪問することが習わしになっており、それを三笠宮家の当主になった彬子女王などの「女王」が担うことは、今の時点では考えられない。

単身でのブラジル訪問は、愛子内親王にとっての皇室外交の1つの頂点となることだろう。

ブラジルは連邦共和制国家で王制の国ではない。その点で、国王などによる晩餐会に、ティアラを着けた愛子内親王が臨むことはないであろう。おそらくは、振り袖姿になるであろう。

ただ、愛子内親王が叔母である黒田清子さんが切り開いた道を自らも歩んでいるという自覚をもって臨むことは間違いない。その心の中では、黒田さんから借用しているティアラが輝きを放ち、ブラジル訪問という試練を克服する支えになるのではないだろうか。

ラオス訪問を果たしたことで、愛子天皇待望論はこれまで以上に高まりを見せているとされる。ブラジル訪問は、その決定打になるはずなのである。

机の上に置かれたティアラ
写真=iStock.com/leykladay
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