振り袖は日本の皇室外交の象徴
愛子内親王の最初の単独での海外訪問はラオスとなり、11月17日夜に首都ビエンチャンに到着した。翌日の18日午前には、市内を視察した。ラオスの独立を記念して建てられた「凱旋門」を訪れ、上階から市内の眺望を見学した。
続いてラオス仏教の寺院であるタートルアン大塔を訪れた。凱旋門では平服だったが、寺院を訪問する際、愛子内親王はラオスの伝統衣装を身にまとった。上にはおる形の「スア」と、巻きスカートの「シン」である。そのことについて、愛子内親王は「ラオスの伝統文化を肌で感じることができて非常にうれしく思います」と語った。
午後、トンルン国家主席への表敬訪問をした際にも、その伝統衣装のままだった。ただ、その日の夜に開かれた副主席主催の晩餐会に出席したときには、淡いクリーム色に花をあしらった振り袖に着替えていた。
女性皇族が皇室外交をくり広げる上で、振り袖が果たす役割は極めて大きい。着物は日本にしかないもので、そのままで日本を象徴するからである。
「準国賓」である待遇の証し
晩餐会で愛子内親王はスピーチを行ったが、その後半で、日本とラオスの友好的な関係を次の世代に引き継ぐ決意として、「今後、私たち若い世代が先人たちの歩みを受け継ぎ、両国の架け橋となって、ラオスのチャンパーや日本の桜のように美しい花を咲かせていくことができればと思います」と述べた。
チャンパーは、日本ではプルメリアとして知られている。白い花びらの中心が黄色などに染まっているところに特徴がある。晩餐会の前に、愛子内親王は「バーシー・スークワン」と呼ばれる手首に糸を巻くラオスの伝統的な儀式に臨んだが、その場にもチャンパーが飾られていた。
現在のラオスは社会主義の国だが、かつてのラオスは王国だった。バーシー・スークワンの儀式は、もともと一般庶民が行っていたもので、それが王室にも取り入れられ、戴冠式やロイヤルウェディングの際には大々的に行われた。
現在では国賓をもてなす際に行われるようになっており、今回愛子内親王が「準国賓」としての待遇を受けた証しと言えるものとなった。ラオスでは王政は廃止されたものの、その伝統が今も生きていると言えるのかもしれない。
若く溌剌としたプリンセスの外交
ラオスには2012年、愛子内親王の父である今上天皇が皇太子時代に訪問している。では、他の王室はどうなのかと調べてみると、それほど多くはないことがわかった。2018年と24年にはタイのシリントーン王女が、22年にはルクセンブルクのアンリ大公が、24年にはブルネイのハサナル・ボルキア国王がラオスを訪れている。
ただ、こうした海外の王室のメンバーは、皆70歳代である。その点で、まだ23歳の愛子内親王は圧倒的に若い。ラオスの人たちがそれをどのようにとらえたのか、まだ報道されてはいないが、若くて溌剌としたプリンセスが訪れたことは強い印象を残したはずである。
それに関連して、最近改めて気づいたことがあった。
今、名古屋の徳川美術館では開館90周年を記念して、特別展「国宝 源氏物語絵巻」が開かれている。この特別展では、10年ぶりに日本を代表する絵巻物の一つ「源氏物語絵巻」が全点公開されている。その多くは徳川美術館が所蔵するもので、もともとは尾張徳川家に伝えられてきた。
源氏物語に造詣が深い愛子さま
愛子内親王は、昨年の5月、東京千代田区の国立公文書館を訪れ、「夢みる光源氏 公文書館で平安文学ナナメ読み!」という特別展を視察している。それは、大学卒業後の記念すべき初の単独での公務であった。
これは公文書館の所望で実現したもので、源氏物語の注釈書などが展示されていた。大学で国文学を専攻した愛子内親王は、それを熱心に見て回り、展示された江戸時代の注釈書「窺原抄」については、やはり江戸時代に作られた著名な注釈書である「湖月抄」との関係について説明役の調査員に尋ねている。その調査員は、愛子内親王が源氏物語について「造詣が深く、鋭い質問もあり、ドキリとしました」と語っている(朝日新聞、2024年5月11日)。
源氏物語は、架空のものとは言え、朝廷を舞台にしている以上、代々の天皇や皇族はこの物語に深い関心を持ってきた。そもそも最初の読者となったのは、一条天皇の中宮であった藤原彰子と、その女官たちであった。そして、南北朝時代から江戸時代にかけて、天皇たちは写本の制作を通して源氏物語を後世に伝えることに貢献したのである。
そして愛子内親王は、大学の卒業論文で平安時代終わりの歌人、式子内親王を取り上げている。和歌を研究対象とした以上、源氏物語についても学んだはずだ。式子内親王は源氏物語の一節を和歌に詠み込んでいる。
愛子さまと源氏物語を結ぶ必然性
ここで私たちが忘れてはならないのは、大学で国文学を専攻した一般学生の源氏物語とのかかわりと、愛子内親王のかかわりの根本的な違いである。一般の学生にとって、源氏物語は古典文学の一つに過ぎないが、愛子内親王にとっては、自らも属している天皇家の過去の姿を描いたものにほかならない。源氏物語の世界との距離感がまるで違うのである。
そのことに深く関連するが、源氏物語には愛子内親王と同じ立場にあった内親王が重要な人物として登場する。主人公の光源氏は、冒頭の「桐壺」の巻に描かれているように、母が天皇の后としては地位が低い更衣で、強力な後ろ盾もなかったことから、臣籍降下し、それで源氏を名乗ることになった。
だが、光源氏が亡き母の面影を見出し、理想の女性として憧れを持って、ついには禁断の関係を結んだ藤壺は、先帝の皇女だった。2人の間には、のちの冷泉帝が生まれている。
光源氏の正室となったものの、柏木と不義の関係を持ってしまう女三の宮も、光源氏の異母兄である朱雀院の皇女であった。こうして源氏物語には、愛子内親王と境遇を同じくする女性たちが登場し、しかも物語の中で極めて重要な役割を果たす。つまり愛子内親王が源氏物語に強い関心を持つのは必然的なことなのである。物語を読んでいく際には、藤壺や女三の宮をどうしても自分と重ねてしまうこともあるだろう。
源氏物語を体現する内親王の優雅さ
最近、愛子内親王は宮内庁式部職楽部による雅楽の演奏会に7回続けて臨席しており、雅楽に並々ならぬ関心を示している。
雅楽は光源氏のような平安貴族には必須の教養であった。源氏物語の中でも、光源氏が頭中将とともに「青海波」を舞う場面は重要で、2人がいかにそれを完璧に、また優雅に舞ったかが詳細に描写されている。
雅楽は、源氏物語がそうであるように、平安時代の宮廷文化の精華であり、それに接することで、鑑賞する側は、平安時代の昔に戻ったような感覚になる。ましてや愛子内親王にとっては、自らが属する天皇家という家の過去の栄光を体感できる貴重な機会になっているはずである。愛子内親王は源氏物語の世界に生きている面がある。
もちろん、現在の愛子内親王の生活が源氏物語の時代に直結するわけではない。愛子内親王が晩餐会で身にまとったのも振り袖で、平安時代の十二単ではなかった。ラオスに行くのも、滞在している間に各種の施設を訪れるのもすべて洋装であった。
しかし、源氏物語の世界を体現しているかのような優雅さ、高貴さを表現できるのも、内親王という立場にあるからに他ならない。愛子内親王は天皇家に生まれ、そのまま天皇家で育てられてきた。そこで育まれる感覚は、どうしても一般の庶民のそれとは大きく違ってくる。
10年後にラオスを訪れる皇族は誰か
果たして私たちは、皇室を離れた愛子内親王を想像できるだろうか。
もちろん、一般の国民と結婚すれば、今の制度では皇室を離れ、国民の一人となる。だが、天皇家のたった一人の娘として育ってきたというこれまでの人生が、それを想像することを妨げている。
これからも、日本とラオスとは友好的な関係を保ち続けていくことであろう。とくにこの二国の間では、衝突が起こるような懸案は見当たらない。
となれば、これから10年後には日本とラオスの外交関係樹立80周年が訪れ、その際には、またラオスに皇族が招待されるはずだ。
その際に赴くのは、秋篠宮家の悠仁親王になるであろう。その時点では、学業も留学も終えているはずだ。また、過去には秋篠宮夫妻がラオスを公式訪問しているし、秋篠宮は単身で私的に訪問している。
愛子さまにあり悠仁さまにないもの
しかし、そうしたときに、男性はその存在をアピールする上でかなり不利である。公式晩餐会において、モーニングの正装で臨むことになり、日本を象徴する着物をまとうとは考えられない。
しかも、悠仁親王は自らが関心を持つトンボなどの生き物には詳しくても、日本の古典文学にどれだけの造詣を持っているのか、今のところそれがわからない。少なくとも、愛子内親王のように、源氏物語に描かれた宮廷文化と自らが結びついていると感じることはほとんどないはずだ。そうなると、愛子内親王が示す独特のオーラを放つことは難しい。
皇室外交によって、海外の国との関係が現実的に変化するわけではない。ただ、そうである以上、両国民に与える印象という点が重要になってくる。
今回の愛子内親王のラオス訪問は、皇室外交において、最もふさわしい存在であることを示した。やはり「愛子天皇」待望論が鎮静化することは考えられないのである。