戦後80年「慰霊の旅」の締めくくり
去る10月23日、天皇皇后両陛下ならびに敬宮(愛子内親王)殿下におかれては、東京・墨田区の東京都慰霊堂を訪れられ、花を供えて先の大戦中の東京大空襲などの犠牲者の霊を、ご丁寧に慰められた。
東京都慰霊堂はもともと、大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災による遭難者(約5万8000人)の遺骨を納めるための霊堂として、昭和5年(1930年)に建てられた。当初は「震災記念堂」と名付けられ、同年の9月1日に落成式典が行われた。
その後、昭和20年(1945年)3月10日にアメリカ軍による東京の下町を狙った無差別爆撃が行われ(東京大空襲)、約10万人もの死者が出た。これは、沖縄戦や広島・長崎への原爆投下に並ぶ大戦災とされている。
この東京大空襲で亡くなられた人びとの遺骨も同施設に納められ、昭和26年(1951年)から「東京都慰霊堂」に名称が改められた。現在は毎年、3月10日と9月1日に慰霊行事が催されている。
この東京都慰霊堂へのご訪問によって、天皇皇后両陛下の硫黄島へのお出まし(4月7日)から始まった、“戦後80年”という節目の年の「慰霊の旅」は締めくくられた。
ちなみに、天皇ご一家は東京都慰霊堂を訪れられるに先立って、東京大空襲があった3月10日当日に、皇居の御所でお揃いで黙禱を捧げておられる。
このたびの慰霊の旅を振り返ると、硫黄島、沖縄(6月4日〜5日)、広島(6月19日〜20日)、長崎(9月12日〜13日)、そして先ごろの東京都慰霊堂という流れで、取り組んでこられた。これらは、30年前の「戦後50年」の時に上皇上皇后両陛下がたどられた足跡を、忠実に踏襲されたものだった。
愛子さまがご一緒だったことの意味
上皇上皇后両陛下は戦後50年にあたる平成7年(1995年)の前年に、まず激戦の地だった硫黄島にお出ましになった(平成6年[1994年]2月12日〜14日)。それを踏まえて翌年、上皇陛下ご自身がかねて唱えておられる日本人が忘れてはならない「4つの日」、すなわち沖縄戦で組織的な戦闘が終結した6月23日、広島に原爆が投下された8月6日、長崎に原爆が投下された同9日、終戦の玉音放送がなされた同15日……に沿って、長崎県・広島県(平成7年[1995年]7月26日〜27日)、沖縄県(8月2日)、東京都慰霊堂(8月3日)を、それぞれ訪れられた。
これらは、苛烈な戦争を「天皇」として実際に体験された昭和天皇が、生涯をかけて深い反省とともに抱き続けておられた「平和への願い」を、揺るぎなく受け継がれたものだった。
それをさらに、令和の現代に受け継ぐお姿が、このたびの天皇皇后両陛下の慰霊の旅に他ならない。
と同時に、見逃せないことがある。それは、戦争への反省と平和への祈りを「次の時代」に向けて、受け渡そうとする営みでもあったことだ。
というのは、5回のお出ましのうち、硫黄島と広島県を除く3回は、敬宮殿下もご一緒だったからだ。この事実が持つ意味は重い。
「世襲」の核心は精神の受け継ぎ
まず、普通に考えて天皇皇后両陛下のお気持ちを他の誰よりもまっすぐに受け継げるお立場にあるのが、令和で唯一の皇女、敬宮殿下でいらっしゃるという客観的な事実がある。しかも、実際にご本人に陛下のお気持ちを受け継ぐご覚悟がなければ、今回のように慰霊の旅の多くの部分をご一家でご一緒されることはなかったはずだ。
憲法は皇位を「世襲」と規定している(第2条)。世襲とは、この場合、天皇の血統(皇統)によって受け継がれることを指す。
しかし、現代社会において「血統が持つカリスマ性」だけによって人びとが心服することは、期待しにくい。敗戦後それほど経っていない頃でも、すでに次のような指摘がなされていた。
ならば、もはや世襲に意味はないのか。おそらく、そうではないだろう。
今の天皇皇后両陛下が幅広く国民から敬愛の気持ちを集めておられるならば、その両陛下のお気持ちを最も素直に受け継いでおられる方に、「天皇」の地位を継承していただくことは、ごく自然なことであり、多くの国民の願いでもあるだろう。その場合、世襲とは単なる血統だけの受け継ぎではなく、むしろ「精神」の継承こそが本義ということになる。
「3代目もご一緒された」
慰霊の旅の重大さを考えると、天皇皇后両陛下はご自身が大切にされている「精神」を敬宮殿下が受け継がれることを期待して、多くの日程をご一緒されたとしか考えにくい。また敬宮殿下ご本人も、自覚的に皇室が伝えてきた精神を継承しようと心を尽くされているように、拝察できる。
そのことをよく示しているのは、今回、各地で天皇ご一家のお出ましを迎えた地元の人たちの受け止め方だろう。
たとえば、ご一家が沖縄の対馬丸記念館を訪れられた時、対馬丸事件の生存者で同館の元館長だった高良政勝さんが、感慨深げに以下のように語っていた。
ここで自然に敬宮殿下に対して、「3代目も」という言葉が出てきている。
愛子さまが受け継ごうとしているもの
広島にお出ましになった時は、被爆者で原爆資料館の元館長だった原田浩さんが敬宮殿下の作文「世界の平和を願って」について、次のように感想を述べていた。この作文は、学習院女子中等部の修学旅行で初めて広島を訪問された時のご感想を書かれたもので、文中に「空が青いのは当たり前ではない」という印象的な一節がある。
ここでも普通に「3代にわたって」という表現が使われていた。
これらの人たちの受け止め方は、敬宮殿下が天皇陛下から皇室にとって大切な精神を受け継ごうとされている真実を、深く洞察されているのではないだろうか。
現に、先の「4つの日」に毎年、黙禱を捧げ続けておられる事実が明らかなのは、上皇上皇后両陛下を除けば天皇ご一家だけであり(ただし終戦記念日は、天皇皇后両陛下は全国戦没者追悼式で黙禱され、敬宮殿下は同じ時刻に御所で黙禱される)、次の世代では敬宮殿下お一方に限られる。
愛子さまへの「帝王学」
戦後80年の「慰霊の旅」の多くに、敬宮殿下もご一緒された天皇皇后両陛下の異例のなさりようを拝見して、これこそが「帝王学」(皇位継承者としての適性を身につける修養)ではないか、という感想を持った人も多くいるようだ。
慰霊の旅だけでなく、たとえば100年ごとの「式年祭」の対象となる、過去の天皇のご事蹟をめぐる専門家による事前のご進講にも、敬宮殿下が陪席されている。これも前例がないことだ。さらに他の事例に照らしても、両陛下が敬宮殿下を次代の継承者として、より高い境地に導こうとされていることが伝わる。
悠仁さまだけになってしまう
しかし、今の皇室典範のルールでは、未婚の女性皇族はご結婚とともに皇族の身分を離れられることになっている。このルールのままだと、やがて今の皇族方の中では、秋篠宮家の悠仁親王殿下たったお一方だけが皇室に残る事態に陥りかねない。
その場合、畏れ多いが悠仁殿下のご結婚自体が至難になるおそれも、否定できない。
これまで、宮内庁の西村泰彦長官は「我々としては大変危機感を持っている」「国会における議論が進展することを望んでいる」(9月11日)などの発言を、繰り返している。宮内庁長官という立場を考えると、それが天皇陛下のお気持ちと無関係であるはずがない。
側室不在の「一夫一婦制」のもとで少子化が進んでいる。にもかかわらず、皇位の継承資格を狭く「男系男子」だけに限定する。そんな制度が長く維持できるわけがない。
およそ“伝統”とも言えない、前代未聞の自滅的なルールの設定と言うしかない。
当事者でいらっしゃる秋篠宮殿下は、現在のルールが持続可能性を期待できないことを、よくご存じに違いない。構造的な欠陥を抱える今のルールは、皇室の存続を望むかぎり、政府と国会の責任で必ず是正しなければならない。
その是正とは、女性天皇も女系天皇も可能になる方向への転換に他ならない。その転換が実現すれば、「直系優先」の原則(皇室典範第2条)によって、次代の天皇は敬宮殿下に決まる。
天皇陛下と秋篠宮さまのお考えは一致
秋篠宮殿下はこれまで記者会見の場で、悠仁殿下への「帝王学」について繰り返し質問されても、一貫して正面から回答するのを控えてこられた。さらに、実際に帝王学にあたる系統的な教育がなされてきた事実も、確認できない。
そのことは、ご自身が次代の天皇であることが確定的な「皇太子」に類似した称号を避け(そのために「皇嗣」という一般的な呼称が称号の代わりに使われている)、傍系の表示である「秋篠宮」という宮号に執着され、さらにメディアにも伝わる形で自ら即位するつもりがないとの意思表示をされている事実などとも、つながるはずだ。
それは、お子さまへのご教育に熱意が薄いとか、皇位継承順位が第1位の皇族(皇嗣)として責任感が弱いということではない。そうではなくて、今の皇室典範の深刻な欠陥を見抜き、天皇陛下にお子さまがいらっしゃる以上、直系による継承こそが本筋であると考えておられることを示すものだろう。
したがって、僭越ながら天皇陛下と秋篠宮殿下のお考えは、まさに一致しておられるのではないだろうか。男系男子限定という“無理な縛り”を解除した、安定的な皇位継承を可能にする健全なルールのもとで、次代において皇位は敬宮殿下が継がれ、秋篠宮家は同家のお子さまが継承される。そのような皇室の将来こそがベストである、と。