嵩が成功したところで幕を閉じた「あんぱん」
連続テレビ小説「あんぱん」(NHK)最終週は、TVアニメ「それいけ!アンパンマン」の放送開始と大ヒット、妻・のぶ(今田美桜)の闘病、のぶの死を予感させて、9月26日で幕を閉じた。嵩(北村匠海)とのぶの子どものような存在であり、二人が見つけた「逆転しない正義」を体現するアンパンマンが飛んでいく、希望を感じるラストである。
実際には、妻・暢を1993年11月22日、享年75歳で亡くしたとき、やなせたかしは74歳。妻の死にやなせはひどく落ち込んだものの、そこから2013年10月13日に94歳で亡くなるまで約20年間を独り身で、しかし、ますます忙しく過ごすことになる。
暢が亡くなってから、やなせは本人の遺志を尊重して身内だけで密葬し、3カ月は誰にも秘密にした。やなせは自伝的なエッセーも出版してきたが、暢の死の前後のことだけはどうしても書けず、ようやく語れるようになったのが暢の没後10年の頃だった。
最愛の妻に先立たれ、夜も眠れなくなった
『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)では、やなせが暢の死後、眠れなくなり、睡眠薬を飲んでようやく浅く眠る日々が続き、62キロの体重があっという間に50キロになり、食欲がなく耳鳴りがひどく、気力もなく、「もう駄目だと思った」と振り返っている。
しかし、そんな状況からやなせを立ち直らせたのは、アンパンマンの力だった。
暢が亡くなった翌々年(1996年)には、香美市立やなせたかし記念館アンパンマンミュージアムをオープン。アンパンマンを見に来てくれたお客さんは、アンパンマン以外の作品を展示していたら、がっかりするだろうと、即座に美術館をもう1つ建てることを決定。翌々年に隣に「詩とメルヘン絵本館」をオープンする。
1996年はやなせが喜寿(77歳)を迎えた年でもあった。周囲によって「やなせたかし先生喜寿の祝い」が計画される中、その計画を見たやなせは面白くないという理由で、自ら演出を買って出る。
「とにかくお客さんを面白がらせたい」という一心で企画したのは、なんと「架空結婚式」だ。お相手は、暢のがん治療に助言をくれた漫画家・里中満智子である。
77歳のとき、里中満智子と「架空結婚式」を
実は暢とやなせは結婚式を行っておらず、暢に後々まで「ウエディングドレスを着たかった」と文句を言われたという。そうした経緯を考えると、亡き暢にとってはさぞかし面白くない話ではないかと思うのだが、やなせの秘書を長年務めた、現やなせスタジオ代表の越尾正子さんは著書『やなせたかし先生のしっぽ やなせ夫妻のとっておき話』(小学館)の中で「この時に『私も花嫁になりたい』という人達がいたので、ミュージアムの前夜祭では八人の花嫁が先生と並んだのだ」と記している。暢もこの奇抜すぎる「架空結婚式」なら、嫉妬することなく、笑っていただろうか。
やなせは2000年5月に日本漫画家協会理事長に就任(2012年6月からは代表理事会長に)。2003年に高知学園名誉学園長に就任、2004年に南国市名誉市民に顕彰、2011年に高知県名誉県民として顕彰など、晩年には名誉職や審査委員長のような仕事が増えていく。
しかし、元来堅苦しい式典などが嫌いなやなせは、「人生は、喜ばせごっこ」の精神で、名誉職なども楽しみ、楽しませていた。
「アンパンマン」の作者として数々の名誉職に
『オイドル絵っせい 人生、90歳からおもしろい!』(フレーベル館)によると、やなせは高知学園名誉学園長に就任した際、赤いタキシードに白いズボン、金の房のついた角帽をかぶって、黒いマントを羽織って登場。しかも、全て自前の特注オーダーという気合の入れようだったという。
漫画界の長老ポジションになったやなせは、会議やイベントでも「ごあいさつ」をする機会が増えたが、「みじかくてユーモラスなものがいい」という信念により、特に通訳が入って長くなりがちな国際的な会では、誰でもわかる英語で「WE LOVE MANGA! WE LOVE PEACE!」のみで大拍手をさらうのが定番だった。
一方、日本社会ではこうもいかないということで、導入したのが「歌うごあいさつ」スタイルである。
「前日に作詞して既製の自分の曲にはめこむ。個人の場合は個人にあわせ、ローカルの場合はインスタントご当地ソングにする。今までの経験でいえば座がやわらかくなり、その後のあいさつも緊張がとれてくる」(『人生、90歳からおもしろい!』)というが、これは全国ツアーをするアーティストやアイドルの手法そのものではないか。まさしく「オイドル」なのだ。
80代以降は、さらに自由に派手になっていく
ちなみに、やなせとアンパンマンは事実上、「星」にもなっている。愛媛県久万町の久万高原天体観測館の中村彰正氏が1995年と1997年に小惑星を2つ発見。そのうち1つに「Yanase」、もうひとつに「Anpanman」と命名したいが許可していただけるかという手紙を送ってきた。それは2003年に認定され、「小惑星46643Yanase」と「小惑星46737Anpanman」が誕生したのだ。
人生のピークを60代以降に迎え、多忙さを極めるやなせの魂は80代以降にさらに自由になっていく。
『人生なんて夢だけど』では80歳当時の心境について、こう綴っている。
やなせたかしと言えば、赤、黒、白などを着たハデハデイメージを思い浮かべる人は多いだろう。しかし、実際にやなせが派手な服を好むようになったのは晩年だけだったのだ。
胆のうと脾臓は切除、入退院を繰り返す
やなせは充実した日々を過ごす一方、健康上の問題は多数抱えていた。
暢が入院する少し前に腎臓結石で、そのすぐ後には白内障手術で二度入院していたやなせは、80歳を過ぎるとさらに入院・手術を繰り返すことになる。
緑内障、難聴、耳鳴りに悩まされるほか、狭心症で心臓に不安があり、膵炎で手術、胆のうと脾臓は切除してなし、腎臓結石手術で左腎は変形、肝炎、腸閉塞、脱腸ヘルニア、坐骨神経痛、糖尿病、爪白癬……。
入院中にベッドの上で仕事をしていたこともあった。しかし、その状況に悲壮感はない。『人生なんて夢だけど』では、ユーモアたっぷりにこう記している。
そんなやなせも90代になると、「引退」を考え始める。目も耳も心臓も悪くなり、「引退したい」と口にするようになったときのことを、『何のために生まれてきたの? 希望のありか』(PHP研究所)では次のように語っている。
2011年の震災では被災地の力になろうと奮闘
しかし、やなせが「引退だなんて甘いことはいっていられなくなった」と語るのは、2011年の東日本大震災発災時。「『アンパンマンのマーチ』を聴きたいというリクエストが放送局に寄せられ、曲が流されると、さらに多くのリスナーから要望があり、繰り返し放送された。やなせは当時の思いについて、『何のために生まれてきたの?』でこう語っている。
そこから被災地を元気づけるため、アンパンマンのポスターを描いて送ったり、現地でコンサートを開催したり、陸前高田市の海岸に残った1本の松の木の話を聞くと、その歌を作り、CDにして陸前高田市に送ったりした。アンパンマン映画で「復興」をテーマにし、「希望のハンカチ」という歌も作った。
その後、2013年9月、やなせは体調を崩して入院した。入院中も高知新聞の「オイドル絵っせい」や朝日小学生新聞の「やなせたかしのメルヘン絵本」の連載を続けていたが、10月初めに自宅療養についての相談をした後に退院というスケジュールが決まる中、9月末に突然肝臓の数値が上がり、退院が先延ばしになってしまう。そして、本人の希望で延命治療は行わず、10月13日にこの世を去った。
アンパンマン役の戸田恵子が語った「最期」
テレビアニメでアンパンマンの声を長年務めている戸田恵子は、『連続テレビ小説あんぱんメモリアルブック』(宝島社)のインタビューで、こう語っている。
『やなせたかし先生のしっぽ~』によると、やなせは自身が亡くなった後に必要とされる遺志は、すべて正式な書面として残していた。墓碑も自分で書き、サンプルまで作らせていた。最後までサービス精神旺盛な「人生は喜ばせごっこ」の人だった。
