悠仁親王の母・紀子妃の公文書
悠仁親王の成年式も無事に終わり、さっそく公務にもいそしんでいる。姉の佳子内親王とともに国立競技場を訪れ、陸上の世界選手権東京大会の競技を観戦している。
悠仁親王が学生生活を送っている筑波大学は、9月30日まで夏季休業に入っている。おそらく、それを踏まえてのことだろうが、これからは成年皇族として公務にはげむ機会も増えていくに違いない。
成年式後の9月11日は、悠仁親王の母である紀子妃の59回目の誕生日で、それにあわせて文書が公表された。宮内記者会からの質問に答える形でのもので、冒頭では、成年式のため念入りな準備を進めたことが記されていた。
何しろ、前回の成年式は父親の秋篠宮のときで、それから40年の月日が経っている。当時のことを知る職員もほとんどいない。紀子妃は、その不足を補うために資料をひもとき、専門家の意見も聞いたという。しかも、前回の成年式が11月で冬の装束であったのに対して、今回は夏の装束で臨むこととなった。季節にも合わせなければならなかったのだ。
皇太子の称号を望まなかった悠仁親王の父
そうした準備を進めることで、紀子妃は、悠仁親王が「装束と所作について関心をもって学び、儀式の意義と共に自らの責任と務めを感じたよう」だと述べている。
悠仁親王に成年皇族として期待していることは何かという問いに対して、紀子妃は、公務を「学びの場」としてとらえ、「訪ねた場所で人々と出会い、暮らし・文化や歴史にふれたり、街中や自然の中を歩いたり、交流をしたりすることも大事で」あり、「学業に取り組む傍ら、多様な経験をしながら視野を広げる機会を積極的に持ってほしい」と述べていた。
悠仁親王は成年式を果たし、成年皇族の仲間入りをした。ただ、天皇の子どもでも孫でもないので、現在の皇室典範の規定では、皇太子になることはない。それは、父親の秋篠宮についても同じである。
2020年11月8日の朝日新聞の記事になるが、現在の上皇の生前退位に結びついた「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」で重要な役割を果たし政治学者の御厨貴氏は、その会議の当初の段階では秋篠宮を皇太子とする可能性があったことを認めている。
ところが、その途中に政府高官から、秋篠宮自身が「皇太子の称号を望んでおらず、秋篠宮家の名前も残したい意向だ」という趣旨の説明があったという。そのため、秋篠宮は皇太子とはならず、「皇嗣」という称号に落ち着いたというのである。もちろん、秋篠宮が皇太子になるには、皇室典範の改正が必要である。
皇族として異例な悠仁親王の学歴
現在の天皇がいつまでその地位にあるかはわからない。昭和天皇のように終身でつとめることもあるだろうし、上皇のように生前退位をすることもあるだろう。
ただ、天皇は現在65歳である。秋篠宮も59歳で、今年中には60歳の還暦を迎える。そうした年齢の問題を考えれば、秋篠宮が即位しても在位期間は短期に終わる。秋篠宮が皇太子となることを望まなかったのは、そうしたことを踏まえ、自らに天皇に即位する意思がないということであろう。
そうであれば、現在では皇位継承順位2位になる悠仁親王が次の天皇に即位する可能性が高いということになる。ただ、そうなると秋篠宮家はなくなる。その名前を残したいという秋篠宮の意向に果たしてどういう意味があるのか。これは注目されるところでもある。
悠仁親王が次代の天皇になるのであれば、天皇のつとめを果たすための「帝王学」が求められる。しかし、これは拙著『日本人にとって皇室とは何か』(プレジデント社)でもふれたが、悠仁親王の進学先は、皇族としては異例なものである。決定的なのは、本来は皇族の教育のために設けられた学習院に一度も通った経験がないことにある。
紀子妃がきっかけとなった「学習院離れ」
もちろん、現在の学習院は基本的に一般の学校と変わらない。学習院で学んでいる皇族は今や一人もいない。華族の制度も戦後に廃止され、学習院は華族が学ぶ場でもなくなっている。
しかし、天皇や皇室に生まれた皇族の中で、一度も学習院で学んだことがないのは悠仁親王だけである。なぜそうした進学先が選ばれることになったのか、本人も秋篠宮夫妻もそれについてはっきりとした理由を語っていないが、国民の中にはそこに疑問を抱く人もいることだろう。
悠仁親王が学習院とかかわりを持たなくなるきっかけは、お茶の水女子大学附属幼稚園に入園したことにある。それは、その時期、母の紀子妃がお茶の水女子大学で研究活動を行っていたからである。同大学には、女性研究者を支える特別入園制度があった。そして、悠仁親王は小学校も同大学附属で、やがては筑波大学に進学することになったのである。
大学だけは学習院という選択もあっただろうが、その道は選ばれなかった。両親は学習院大学を卒業しているにもかかわらず、である。
しかも、紀子妃の場合にも、実は学習院との縁は極めて深いのである。
学者一家で育った紀子妃の生い立ち
紀子妃の父親の故・川嶋辰彦氏が学習院大学の教授であったことはよく知られている。学習院大学は目白駅のすぐ近くにあり、私は日本女子大に勤めていたとき、学バスから、学習院大学の校門の前に立つ川嶋氏の姿を見たことがあった。
川嶋氏は東京大学の出身だが、学習院大学に赴任してからはキャンパスの中にある学習院共同住宅に一家で住んでいて、そのことは話題にもなった。紀子妃がその共同住宅に里帰りしたときの写真も残されている。ただし、この共同住宅は老朽化により取り壊されている。
川嶋氏の父親である川嶋孝彦は、内閣統計局長をつとめた官僚だった。注目されるのは、さらにその父親である川嶋庄一郎のことである。教育者として活躍した人物なのだが、1901年には学習院の教授に任じられている。しかも、翌年からは初等学科長を兼任している。初頭学科は小学校のことである。学習院にいた期間は3年にも満たず、佐賀県師範学校長に転任しているのだが、紀子妃の曾祖父は学習院と深い結びつきがあったのである。
こうしたことを踏まえて考えると、悠仁親王が一度も学習院とかかわらなかったことは、さらに不思議に思えてくる。
紀子妃の強い意思を反映した進学先
紀子妃が学習院で学ぶようになったのは、小学校4年生のときからである。川嶋氏が学習院大学の助教授から教授に昇格したのに伴ってのことだった。それ以降、学習院では修士課程まで修了している。
ただ、悠仁親王を出産した後に、学習院ではなくお茶の水女子大学で研究活動を再開している。そこから秋篠宮家の「学習院離れ」がはじまった。高校まで学習院だった眞子元内親王は、国際基督教大学(ICU)に進学し、佳子内親王もいったんは学習院大学に入学したものの、中途退学し、ICUに入り直している。
この一家での学習院離れをどのように考えるかである。川嶋家の歴史を踏まえると、そこにはかなり強い意思が働いているようにも思われる。その意思は、秋篠宮よりも紀子妃により強いものなのではないだろうか。
紀子妃としては、自分や子どもたちが学習院で学び続けている限り、「枠」をはめられるように感じたのでないだろうか。
紀子妃流の帝王学とは何か
私も文部科学省の研究機関につとめていた時代には、官舎に住んだことがある。家賃は1万円程度と安いが、部屋は狭く、生活はかなり窮屈であった。紀子妃も、共同住宅に住んでいた頃、そうした思いを抱いたに違いない。
しかも、紀子妃は皇室に嫁いだことで、学習院という枠は強化された。そして、悠仁親王を出産したことで、「天皇の母」への道が開かれた。ただ、秋篠宮に天皇に即位する意思がない以上、皇后になることはない。そうした複雑な立場におかれた人間がどういう思いを抱くのか。一般の国民としては想像が難しいが、極めて特殊な心理状態に置かれたのは間違いないであろう。それと、学習院離れは連動しているのではないだろうか。
内親王である女の子どもたちには、将来、皇室を離れることを前提に、国際感覚を養ってもらいたいと、ICUを選択させた。そして悠仁親王には、自分の関心がある事柄をとことん追究してほしい。学者の家庭で育ち、紀子妃自身も研究者の道を歩んで博士の学位も取得しているわけだから、筑波大学で自由に好きな学問を学んでほしい。それが紀子妃流の帝王学であり、秋篠宮もそれに同意していることになる。
しかし、果たしてそれが、将来天皇に即位する親王に対する帝王学としてふさわしいものなのだろうか。
学問の道を進めば、どうしてもそれを徹底したくなってくる。もちろん、近代の天皇がそうであるように、天皇に即位しても研究活動はできる。だが、国事行為をはじめ数々の公務はあるし、私的なものとしては宮中祭祀もある。研究に専念するというわけにはいかない。
天皇にふさわしい帝王学とは何か
雅子皇后が天皇の母になるのであれば、その帝王学は異なるものになっていたに違いない。こちらは、学者一家ではなく、外交官一家の出身である。愛子内親王が天皇に即位するというのであれば、国際感覚を養うために留学を勧めたことだろう。国際交流にも、今以上に積極的にあたらせるようになったのではないだろうか。
かつての皇室の伝統では、親王も内親王も、里子に出され、天皇や皇太子夫妻が直接育てることはなかった。その分、親王も内親王も外の家庭で厳しく育てられた。その伝統は昭和天皇が皇太子だった時代から変わり、それ以降、子どもは夫妻のもとで育てられるようになった。その分、親の影響は相当に強いものになった。
悠仁親王は成年式の際に、成年皇族としてのつとめを果たすことの覚悟を述べたが、実質的に次の天皇であるにもかかわらず、その立場は曖昧である。
どういう立場にあるかで人は変わる。傍系としての扱いが続く限り、曖昧な立場から逃れることはできない。そこにも、「愛子天皇」待望論が高まる理由がある。愛子内親王は直系である。
国会で、皇位継承の安定化についての議論をするのであれば、こうした悠仁親王の立場についての議論も必要なのではないだろうか。あるいは、次の天皇の帝王学についても、何がふさわしいかの検討は不可欠なはずである。
