笠置が死去したとき、服部は「見事な引き際」と言ったが…

「段々高い声が出にくくなって来たので、よく音程を下げて楽譜を書き直ししていた事はあったが、これは年を取れば当然の事で、誰でも歌手ならやっている事である。しかし彼女の場合はる日突然歌を止めてしまったので驚いた。はたから見た限りでは全然変わらないのに、彼女は自分自身の限界をさとってしまったのか、(略)常に妥協を許さないきびしい人で、うっかり冗談もいえない人だったが、ほとんど最盛期といってもよい時期に、ファンに最高の思い出を残して音の世界から消えてしまったのである。全く美事みごとというほかはない」
『文藝春秋』1985年6月号「回想の笠置シヅ子」

これは1985年3月の笠置の死の直後、服部良一が愛弟子を回想して月刊誌に書いた手記の一部である。1957年の笠置の歌手廃業宣言をマスコミや周囲の人々は、最盛期の歌手がファンに最高の思い出を残して去って行ったと、その潔さを称えた。高峰秀子も自伝で「小気味のいいほど見事な引退ぶり、見習いたい」と書いたほどだ。

服部もこの手記では笠置の歌手引退を「美事な引き際」としている。だが笠置が歌手を引退した1956、57年当時、肝心の服部がどう思ったのかがわからない。戦前に笠置を見出し、戦後「ブギの女王」に育てた師匠として、愛弟子の突然の“宣言”を実際のところはどう受け止めたのだろう。その資料が見当たらない。「驚いた」と手記に書いているから唐突で残念に思ったことは想像できるが、そのとき服部がそれを聞いて笠置になんと言ったのか。笠置にねぎらいの言葉でもかけたのだろうか。

服部良一氏、作曲家、1980年3月30日
写真=時事通信フォト
服部良一氏、作曲家、1980年3月30日

息子の克久氏は「おやじさんは怒りましたよ」と語った

私は、作曲家の服部克久さん(1936年〜、服部良一の長男)にお会いしてそのことを尋ねてみた。すると意外な答えが返ってきた。

「おやじさんは怒りましたよ。俺の作った歌を葬り去るつもりか、と。たしかにブギは笠置さんのために書いた。でもそれは彼女一人のものではない。服部良一にも相談せず、笠置さんは勝手にやめた。作曲家は歌手が歌ってくれないと、せっかく作った歌がこの世から消えてしまうことになる。もう踊れないからなんて、言い訳にはなりません。歌手は声が出る限り、死ぬまで歌い続けないといけないんです」

この言葉に私は一瞬ハッとした。まさに“目からウロコ”だった。そうなのだ、選ばれた表現者は死ぬまで“赤い靴”を脱いではいけないのだ、と。杉村春子も美空ひばりも淡谷のり子もみんなそうだったように。