「男天下」の時代だった

男女差別は「ひどいなんてもんじゃなかった」。ソフト帽を被った男性がステッキをついて歩く後ろを、子どもを背負い、両手に荷物を持った女性が追いかける姿を何度も見た。

「男は荷物を持つこともなく、『早くしろ。置いていくぞ』なんて言ってた」

山田さんは幼心に「なんだい、えばりくさりやがって」と思っていたそうだ。

男性が気に入った女性を追いかけまわし、女性が嫌がっても「お前が色気を振りまくのが悪い」と言う。戦争で男性が減り、女性が市電の運転手をするようになると「女が運転してんだって」とバカにされる――。「男天下」の時代だった、と振り返る。

それでも、商いをしている家庭では雰囲気が違っていた。夫が品物を作り、妻が売る店が多く、「女房に逃げられたら食っていかれないからね。共存共栄で食ってた連中は小商人だけ。あそこには自由があった」。品物作りから店番までやっている女性もいて、「かっこいいなと思って見てた」と振り返る。

山田さんの実家はパン屋を営んでおり、父親は優しい人だったそうだ。

山田さんは幼い頃からしっかりしていて、父親は「もったいないな。男に生まれりゃよかったな」と悲しんでいた。「男しか自立できない、えらくなれない社会だったからね」

ミュージシャン、女優から40代でプロデューサーに

山田さんは女学校に在学中、女優を目指して新人俳優発掘のためのオーディション「大映ニューフェイス」に応募した。「違う世界に飛び出してみたかった」からだ。落ちたものの、聴講生として学校に通い始めた。

10代の終わりごろに女性バンド「ウエスタン・ローズ」の一員として進駐軍のクラブをまわるようになり、その後は女優に転身。コントや芝居をやりたくて浅草演芸場にも立った。

「ウエスタン・ローズ」の一員として活動していたころの山田火砂子さん(前列左)
提供=現代ぷろだくしょん
「ウエスタン・ローズ」の一員として活動していたころの山田火砂子さん(前列左)

29歳で結婚して長女と次女を出産。離婚後、43歳の時に再婚した相手が、16歳年上の映画監督、山田典吾さんだった。

「(山田典吾さんと)結婚したときは『私、もしかしたら女優に復帰できるかな』と思ったの。そしたらさ、典吾さんが言うことがふるってんの。『年寄りの女優は売るやつがいないんだよ。頼むからプロデューサーになってくれないか?』って。それからは、苦労の連続ですよ」

映画をどう売ればいいのかなんて、見当もつかなかった。まずポスターを作らないといけないと教わり、漫画家の赤塚不二夫さんに頼みに行った。赤塚さんがノーギャラで描いてくれた絵を持ってデザイナーのところへ。デザインも完成し、35万円を払って5000枚を印刷してもらったら、配給会社から「裸とかセックスシーンがないとお客は観にこない」と言われてがくぜんとした。