家康の姓は「源」で苗字が「徳川」、藤原摂関家は「近衛」に

現在では姓と苗字は同義語であるが、明治以前は違った。たとえば、徳川家康の姓は源で、苗字は徳川氏である。苗字の7~8割は居住していた地名に由来するという。藤原摂関家の嫡流は代々京都の近衛に邸宅を構えていたから、近衛と呼ばれるようになった。

「光る君へ」でも紹介されているが、藤原兼家の邸宅は東三条にあり、兼家は東三条殿と呼ばれていた。ではなぜ、兼家の一族は東三条氏と呼ばれなかったのか。それはかれの子どもたちが別々に居宅を構え、代々そこに住んでいなかったからであろう。

日本は平安時代くらいまで招請婚しょうせいこん・母子相続が一般的だった。妻の家に夫が婿入りして、居館は父から娘(+その夫)に相続される。ドラマでも藤原為時が側室の家に泊まって、まひろの家に帰ってこないときがあった。貴族には何人かの妻がおり、その妻の家を渡り歩いていたのだ。

藤原公任の和歌『しらしらとしらけたる夜の月かけに 雪かきわけて梅の花折る』より
藤原公任の和歌『しらしらとしらけたる夜の月かけに 雪かきわけて梅の花折る』より(図版=月岡芳年作『月百姿 藤原公任』/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ところが、平安末期から父子相続に変わっていく。なぜかといえば、そこには収入の変化が関わっている。平安貴族の収入源は、官職にともなう報酬が主だったらしい。これに荘園からの上がりをプラスするくらい。だから、猟官運動が過熱する。当然、エライさんの息子は、若くして高い官職を与えられるから、居住実態が母子相続であっても、経済的には父子相続を実現できたのである。

平安末期の貴族は母子相続から父子相続へシフト

しかし、平安末期に地方の治安が悪化して、地方からの税収が途絶え、国からの給与が危なくなってくると、平安貴族の収入源は荘園を基盤としたものにシフトしていく。そうなると、経済的基盤は父から息子への相続に変わらざるを得ない。当然、居宅も世襲となり、「代々近衛に住んでいるから近衛殿」という具合になっていく。

ちなみに、全財産が長男に譲渡される(長子単独相続)ようになるのは室町時代初期からで、鎌倉時代では分割相続が一般的。娘にも財産を分与していた。財産分与の決定権は父親にあるので、父親の権威が上昇する。平安末期に院政がはじまるが、これは天皇家が持つ荘園を経済基盤とした、父子相続が前提になっている。

また、長子単独相続でなければ、長男かそれ以外かの兄弟順序は重要なファクターにはなりえない(長期間、親の庇護を得られる長男の方が有利ではあるが)。実際、藤原道長は5男坊(ドラマでは3男だが、異母兄が2人いる)、その父・藤原兼家は3男坊だった。道長の場合、姉の詮子あきこ(吉田羊)の庇護が出世に大きく影響したと伝えられている。