「魔女」といわれた彼女の最後

だがヒュパティアは改宗しなかった。ギリシャ系の彼女は多神教徒であり、つまたキリスト教の教える「奇蹟」を否定し、あくまで学問は科学的であるべしとの信念を曲げなかった。アレクサンドリアの知識層を代表し、がらんどうになった図書館でなお研究を続ける彼女のこうした態度はキリスト教過激派の憎しみの的となり、415年、ついに惨劇が起こる。

ギボンの『ローマ帝国衰亡史』によれば、ヒュパティアの最期さいごはこうだったという――「魔女」と見なされた彼女は総司教キュリロスたちに拉致され、教会へ連れ込まれ、裸にされた後、牡蠣かきの貝殻で生きたまま皮膚と肉をがれて息絶えた。遺体はその後ばらばらにされ、見世物にされてから、市門の外で焼かれた。

教会堂の中でなぜヒュパティアが裸なのか、なぜ悲痛な表情なのか、なぜ床に着衣が散乱し、大きな燭台の一部が倒壊しているかがわかるだろう。彼女はこれから自分にふりかかることを予期し、恐怖を抑えるかのように胸のところで右手を強く握りしめる。

その一方で左腕を天へ向かって伸ばし、暴徒らに理性を訴えている。アレクサンドリアという都市の成り立ちと学問の自由も思い出させようとしているのかもしれない。

だが、排他的な宗教が世俗の権力と結びついた時どれほど残虐になりうるかを、我々現代人は嫌というほど歴史から教わっている。狂信的な相手には何を言っても通じないのだ。女だろうと子どもだろうと、彼らは容赦しない。皮ぎ刑という身の毛もよだつ行為。ヒュパティアの絶望の深さが観る者の胸をえぐる。

キュリー夫人が有名になる前の話

もう一人の偉大な女性科学者も取り上げたい。女性初のノーベル賞を、しかも二度も受賞したマリー・キュリーだ(1903年に放射線研究により夫と共に物理学賞、1911年にラジウムとポロニウムの発見により単独で化学賞)。

彼女の旧名は、マリア・サロメア・スクウォドフスカ。ポーランド人。彼女が生まれた当時の祖国はポーランド立憲王国とは名ばかりで、帝政ロシアの衛星国にすぎず、ロシアのツァーリが国王を兼ねていた。

民族蜂起を懸念けねんしたロシアはポーランド貴族を粛清し、知識層の行動を制限した。スクウォドフスキ家は下級貴族で、父親は物理を講義する教授、母も教育者だった。仕事も邸やしきも取り上げられ、一家(両親と一男四女)は移り住んだ狭い家で細々と寄宿舎を経営したが、生活は苦しかった。そんな中、マリー10歳の時、母が結核で亡くなる。2年前には長姉がチフスで亡くなっていたので、2番目の姉ブローニャ(ブロニスワヴァ)が母代わりとなった。

マリーは官立女子中等学校を首席で卒業すると、一大決心をする。ポーランドでは女性の大学進学が許されていなかったため、パリのソルボンヌ大学で医学の勉強をしたいというブローニャを、自分がガヴァネス(住み込みの家庭教師)として働いて援助するというのだ。ブローニャが医者になったら、今度はマリーをパリに呼びよせ、大学へ行かせてもらう約束だった。

確かにこのままだと「世の中に貢献したい」という兄弟姉妹ののぞみは貧困に圧しつぶされ、誰も成就できなくなる。一人ずつ順に進むほうが可能性は高くなるだろう。しかし下手をすると援助された者だけが浮き上がり、援助した方は沈みっぱなしになる可能性もなくはない。相手への深い信頼と強い信念があってこその選択だ。