大手外資系金融での激務から時給850円のバイトへ

会社に入ってみると、クライアントのために、成長戦略を練ってチームで提案していく仕事はとても充実していた。ただし、非常に激務でもあった。午前4時に帰宅して、午前9時にはまた出社する。社内の制度や報酬、評価制度ではどうしてもやりがいを見いだせなかった。

土屋 香南子さん(写真=本人提供)
土屋香南子さん(写真=本人提供)

1年経つと、「リセットしたい」と思うようになった。ついに、次の仕事も決めぬまま退職した。

そんな時に、母・順子さんから「手伝いに来てほしい」と言われ、パスケースの制作に携わることになった。ついこの間まで世界の一端を変えるチームにいたのに、時給850円のバイトになったのだ。

仕事のサイクルも早く、うまくいかなければPDCAを回してどんどん改善する。スタッフも少なく、「私にはできません」と言えるような状況ではなく、何でも自分たちで作り上げていかなくてはならない。

しかし、「これいいね」とお客様が買ってくれる。加工所の人が「作っていて楽しい」と言ってくれる。大変な作業量ではあったが、香南子さんは母の会社に来て、身近な人や身の回りの人に役立っているということを実感し、満足感を得ることができた。そして香南子さんは、会社に正式にジョインすることになった。

「家業にしたいとは考えていました。ずっと続く事業にしたいと。娘のことは想定外ではあったけれども、彼女ならすぐに私と同じ速度で走ってくれるという思いがありました」と順子さんは言う。

年商2億を超え、軌道に乗ったところにコロナ危機

こうして、母娘の二人三脚の日々が始まった。

生産管理は母、営業やプロモーションは娘が担当することになった。次の成長戦略のため、販路を拡大。全国の東急ハンズに加え、書店の開拓も行った。商品展開も、カードケースだけでなくスマホも持ち歩けるポーチを開発し、定番となった。当時3000万円だった年商は、20年には2億円を突破した。

ようやく軌道に乗った同社を襲ったのが、新型コロナである。都心で週末の外出自粛が始まると、小売店は営業時間を短縮。ECも少しは取り扱っていたが、3月から売り上げが落ち始め、どうしたらいいかと2人で毎日企画会議を開いた。

そんなとき、創業時からのスタッフが会社を訪れた。中華街時代に最後の一人になっても順子さんを支えてくれた彼女である。彼女はすでに独立していたが、変わらず行き来があった。

ちょうどそのころ、世間ではマスク不足が取りざたされており、手作りマスクでしのぐ人も大勢いた。「ハンカチなど、なんでも手軽にマスクにできれば、欲しいと思う人がいるんじゃないかな」という彼女の一言に、母娘は「いいね!」とその場で乗った。