お飾りとしか見なされないファーストレディー

ではなぜ、ファーストレディーには「お嬢さん育ちだから仕方ない」が成立してしまうのか?

それは、彼女が、ファーストレディーなる立場が、お飾り以上の存在と見なされていないからだ。女性活躍推進のごく初期に、人数合わせのために名前だけの女性役員があちこちに立てられた時の「お客さん」扱いと同じ。本当に大切なことからは遠ざけられ、本当に大事な情報は聞かされない。誰も本気で耳を傾けない。

だからあの頃、政治でも経済でも「数合わせのために」重用された女性たちの中から、ある人々は真剣に闘って自分たちの権限と責任の幅を広げ、そうでない人々はあっという間に姿を消したのではなかったか。

チヤホヤされる「お客さん扱い」は、真剣に生きている大人だったら耐えられない。

空虚感はスピリチュアルと相性がいい

安倍昭恵さんがご自身の状況に満足しておられるのなら、「安倍昭恵さんという個人」としてはもちろんOKで、外野がしのごのいうことじゃない。だけど「ファーストレディーという公人」としてはだいぶNGだ。

国家のリーダーと運命を一つにしているはずの最も近い存在が、そのリーダーが国民に対して真剣に密集の回避と異例の自粛を要請し、少なくない国民がそれに応じて自分たちなりに生活様式を変えようと努力していた隣で、フワフワとそれを踏みにじっていられた。歴史的な有事におけるその無自覚さを見て、私は初めて安倍昭恵さんという人に対して盛大な皮肉を込めて「すごいな」と感じた。

「アタシたちが一生懸命自粛しているのに、昭恵が自粛してない! ガー!!」なんてこれっぽっちも思っていない。そういうことじゃなくて、例えばコロナ対策の方針で異論があるとか、政治的に対立しているとかで態度に表したというならともかく、ただ「フワフワと」「無自覚に」ありのまま、というのが、なんだろう、猛烈に空虚なのだ。

あまり考えたくないけれど、ひょっとして、もしかして、彼女はとても空虚なのではないか。昭和の夫たちの「家庭内野党」という古い定型句や「女房は機嫌よくしていてくれるのが一番」という恐妻論は、「女房のすることなんてその程度」という認識と表裏一体だ。「夫に“自由にさせてもらっている”」という、現代の女が聞いたら身の毛をよだてて泡吹いて卒倒するやつだ。

そういう空虚感は、昔からスピリチュアルと相性がいい。昭恵さんのスピリチュアル好きは以前からたびたび指摘されてきたことで、私も耳にしたことがある。あの世代では、女性の世間知らずは「手つかず」「高級」「上等」の証だった。「上等?」な女性がそのまま大人になるとスピリチュアル行きになるという例を、私たちはいま、見て学んでいる。

写真=時事通信フォト

河崎 環(かわさき・たまき)
コラムニスト

1973年、京都府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。時事、カルチャー、政治経済、子育て・教育など多くの分野で執筆中。著書に『オタク中年女子のすすめ』『女子の生き様は顔に出る』ほか。