岐阜県高山市荘川町──。御母衣(みぼろ)湖の湖畔に、地元の誇りともなっている2本の桜がたたずむ。推定樹齢450年。もともとは水力発電用のダム湖の底に沈む運命だった“荘川桜”である。世紀の大移植が行われたのは今から58年前の1960年。きっかけは、ダムの開発主、電源開発(Jパワー)の初代総裁を務めた高碕達之助の「水没から助けたい」の一言だった。
撮影:前川彰一
御母衣湖の湖畔で見事な花を咲かせる2本の荘川桜。湖に沈む照蓮寺、光輪寺の境内から移植された。
上/移植には、クレーンやブルドーザーを使用。高低差50m、距離にして約600m運搬された。
下/移植にあたってかなり枝が切り落とされたが、その後、新たに枝を伸ばし現在の姿に。

戦後の日本人に自信を取り戻させた偉業

戦後復興や燃料不足を背景に「空前の電力危機」が叫ばれる中、1952年に電源開発は特殊法人として発足した。高碕が初代総裁となったのは、経営者としての実績を買われてのことだ。すでに複数の企業で優れた成果を上げてきた手腕に、かつてない大規模発電所開発の指揮が託されることとなった。 

抜群の行動力や合理的な判断で周囲から一目置かれていた高碕。その最初の大仕事が静岡県浜松市の「佐久間ダム」の建設である。膨大な水量を誇る天竜川流域でのダム建設は実は戦前から検討されていた。しかし、“天下の暴れ川”の激しい流れと流量は当時の日本の土木技術ではとても手に負えないと考えられていたのだ。

高碕は社内の理事の一人に確認する。「駄目かね?」「駄目です」「アメリカの機械を使えばどうかね?」。決断は速かった。自ら佐久間ダムの完成図を携え米国に飛んだ高碕は、同様のダム建設の実績を持つ企業を訪れ、現場に直に赴いた。そこで目にしたのが、ダンプカーやパワーショベル、ブルドーザーが整然と稼働する光景である。「これだ」。土木作業といえばツルハシにモッコの時代に、すぐさま米国製の大型重機と最新工法の導入を決め、5~10年は優にかかるとされた佐久間ダムをわずか3年で完成させてしまう。戦後の土木事業のマイルストーンといわれるその巨大なダムは、萎縮していた当時の日本人に自信を取り戻させることにも大きく貢献した。ちなみにこの事業で電源開発は、時の首相の反対を押し切って水車発電機の購入で国際入札を導入した。国策会社であっても「一番安く、一番良いものを」という、まさに合理性を大事にする高碕らしい判断といえるだろう。

最も大切なことは“理にかなっているかどうか”

御母衣ダムは土砂や岩石を積み上げたロックフィルダム。高さは131mで、建設当時は「20世紀のピラミッド」と呼ばれた。

そしてもう一つ、高碕がリーダーシップを発揮したのが冒頭の「御母衣ダム」の建設だ。このダムは、佐久間ダムとは異なる難題を抱えていた。地質の関係で、従来のようにコンクリートの壁で水をせき止めるのが難しかったのだ。そこで採用したのが“ロックフィルタイプ”。土砂や岩石を積み上げて築造する方式である。決断の裏には、「近い将来、日本または当社で海外の仕事を引き受けるようになる場合、ぜひロックフィルダムをつくっておく必要がある」との先見もあった。当時、“20世紀のピラミッド”とも呼ばれた巨大ダムは見事1961年に完成を見ている。

ただし、この一大事業を語るときに忘れてはならないのが現地での反対運動である。地元住民らは「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」を結成し、猛烈な運動を展開した。高碕自身、死守会のメンバーと直接面会している。時に涙を拭きながら話しかけ、「皆さんの苦痛は金銭のみではかえられない」と真摯に語る姿に反対派もいつしか信頼感を覚えたという。約7年に及んだ反対運動は、最終的に電力不足という国家課題に住民らが協力する形で終結する。

まさにその死守会の解散式当日である。建設当初の責任者として列席した高碕は「湖底に沈む集落を最後に見たい」と歩を進め、ふと立ち寄った寺の前で老桜を目にすることになる。後に本人は綴っている。「この巨樹が、水を満々とたたえた青い湖底に、さみしく揺らいでいる姿が、はっきりと見えた。この桜を救いたいという気持(きもち)が、胸の奥のほうから湧き上がってくるのを、私は抑えられなかった」。

高碕達之助(たかさき・たつのすけ)
電源開発株式会社(Jパワー)
初代総裁

1885年生まれ。旧茨木中学を卒業。農商務省水産講習所などを経て、1917年に東洋製罐株式会社を創立。1942年、満州重工業開発株式会社総裁に就任。1952年、電源開発初代総裁に就任。その後、通商産業大臣、初代経済企画庁長官などを歴任。

ここでも高碕に迷いはなかった。桜博士として知られる笹部新太郎に連絡を取り、すぐさま移植を打診。当初、どんな専門家でも活着は難しいだろうと難色を示す笹部に対し、「あなたはどうです」「絶対に駄目ですか」と畳みかけた。その熱意から笹部は、「これによって、先人の遺した物を大切に護(まも)るべきを訓(おし)える示唆ともなれば」と移植を承諾する。世界にも類を見ない老桜の大移植はこうして進められた。

高碕は行動派で合理主義である一方、故郷が水底に沈む村人のことを思い、桜が心の癒やしになればと、人情味あふれる一面も持ち合わせていた。「古きものは、古きがゆえに尊い」とは高碕の言葉。高碕にとっての「合理性」は、単に無駄を省くことではなく、“それが理にかなっているかどうか”なのだ。

今も春には美しい花を咲かせる荘川桜。2004年の完全民営化後もJパワーにとって、荘川桜はエネルギーと環境、そして地域社会との共生の象徴となっている。

Jパワーは、CO2フリーの純国産エネルギーの水力発電では日本で約2割の設備出力シェアを持つとともに、その他の再生可能エネルギーの開発や石炭火力の低炭素化技術研究にも力を注ぐ。一方で、各発電所地域での清掃活動や自然保護活動への参加、発電所見学会の開催など地域社会との連携にも積極的だ。

「環境との調和をはかり、地域の信頼に生きる」を信条の一つとして、Jパワーは日本と世界のエネルギーの未来のための取り組みを続ける。設立から66年。初代総裁が何より大事にした“物事の本質”へのこだわりは、今も息づいている。