「まさか自分がこのように日本に迎えられ、戻ってくることになるとは」。指揮者上岡敏之は感慨深くそう振り返る。東京藝術大学時代は落ちこぼれ。これが最後と留学したドイツで、下積みからキャリアを積み上げた苦労人は、今、東京都墨田区に本拠を置く新日本フィルハーモニー交響楽団の音楽監督として、地域と連携して音楽文化を根づかせたいと奮闘している。
新日本フィルハーモニー交響楽団
1972年、小澤征爾のもと、楽員による自主運営のオーケストラとして設立。97年墨田区に移転し、すみだトリフォニーホールを活動の本拠地とする。同ホールとサントリーホールで定期演奏会を行うほか、地元の学校などを訪れ、地域に根ざした演奏活動も行っている。
上岡敏之(かみおか・としゆき)
1960年東京生まれ。東京藝術大学卒業後、84年ハンブルク音楽大学に留学。ヘッセン州立歌劇場、北西ドイツ・フィル首席指揮者、ザールランド州立歌劇場音楽総監督などを歴任。現在、コペンハーゲン・フィル首席指揮者、ザールブリュッケン音楽大学教授も務めている。

ハンブルク音楽大学に留学してから、ずっとドイツを中心にヨーロッパでキャリアを積んできました。日本での学生時代には、正直いい思い出がないんですよ(笑)。大学の卒業試験には落ちるわ、大学院の試験にも落ちるわで(笑)、いちどは就職もしました。でも、そこでこれが最後とドイツに留学して、僕の音楽人生が変わりました。

昨年9月、新日本フィルハーモニー交響楽団の音楽監督に迎えられ、久しぶりに日本に戻ってきました。新日本フィルの音の個性をつくりたいという思いで、楽員たちと手さぐりしながら、今、オーケストラの中を徹底的に掘り下げているところです。まだ到達地点には至りませんが、1年前と比べると、パレットにいろいろな色が並びはじめた感触があります。

音楽とは、作曲家の想いを自分なりに理解して、人に伝えること。そうして人に喜びを与えるのが演奏家です。最終的には自分との対話になるのですが、作曲家の想いを大切にしながら、メロディーの裏側まで表現できれば、出てくる音が違ってきます。

本当に大切なことは、大声を張り上げて話したりしませんよね。それがクラシック音楽の基本です。マイクを使わず、声と同じように楽器の音を出す。それを聴衆に届け、聴衆とキャッチボールをする。こうしてオーケストラは音楽の中身を深めていくのです。

音楽のある所に争いは起こらない

ドイツで音楽家としてのキャリアをスタートさせ、2004年にヴッパータール市の音楽監督に任命されました。アマチュアから学校、プロのオーケストラまで、ヴッパータール市の音楽のすべてに関わる仕事です。例えば学校の音楽教育について意見交換したり、自分が学校に出向いて音楽の授業をすることもありました。

ヴッパータールは戦前までドイツ第二の都市だったのですが、第二次世界大戦で街の9割が破壊されました。戦後の復興のなかで、文化のある所に争いは起こらないという考えのもと、文化に力を入れてきました。ドイツのように至る所に歌劇場があり、オーケストラがある国では、自分のまちを一つにする文化が「音楽」なんです。大変でしたが、やりがいのある仕事でした。

なかでもヴッパータール交響楽団とは侃々諤々(かんかんがくがく)とやりあいながら、高いレベルの要求をつきつけました。まず、それまで週1回だった演奏会を、週2回に増やしました。

忘れもしません。僕が音楽監督になって最初の演奏会、ドイツの有名なバイオリニストをお呼びして、マーラーの5番を演奏したのに、お客さまはわずか250人。

これは叩かれましたよ。でもあきらめませんでした。一緒に音楽をやる仲間として、楽員たちとの信頼関係が生まれてきて、演奏のレベルも上がっていきました。地道な活動を続けた結果、チケットが取れないほどの人気オーケストラになったのです。10月3日のドイツ統一記念日に行った野外コンサートには、4000人ものお客さまが来てくれたこともありました。

墨田区と連携し地域に溶け込んだ活動を

ヴッパータールの人たちにとっては、「自分のまちのオーケストラが一番」なんです。ベルリンフィルが来たって、誰も行かない。チケットを安くしたって行かないんですよ(笑)。みんなうちのオーケストラのほうがいいと思っているんです。

新日本フィルの活動拠点は、東京都墨田区の「すみだトリフォニーホール」。墨田区もこのホールも、音楽をやるのにちょうどいい大きさです。われわれも、もっと地元の皆さんに愛されるオーケストラになっていきたいと思っています。

そのためのアイデアはいろいろあります。例えばオーケストラと地元の子供たちの演劇やダンスを組み合わせたり、障害のある方と一緒にやるなど、区民の皆さんにどんどん舞台に上がって参加してもらいたいと考えています。夢はオペラ「ヘンゼルとグレーテル」を小学生に演じてもらうこと。墨田区の小学生は全員それをやる、なんていうことができたら、区民共通のすてきな思い出になると思うんです。

自分のドアさえ開ければ、そこにあるもの、それが音楽です。音楽によって自分を高められるし、共感することもできる。だから私たちも皆さんが入ってきやすいように、いつでもドアを開けています。

長い年月をかけて淘汰され、今の時代に伝えられているクラシック音楽というものは、例えば喜びや、ときには殺意といった人間の感情まで、音の言葉として伝えることができる。その音に共感できたとき、自分の世界がぐんと広がります。

音楽の解釈はいろいろあっていいんです。自分の感性で自由に感じればいい。その感性を磨くのは日々の生活です。そこに少しでもゆとりがあると、世界が広がっていく。だから皆さんにも、クラシック音楽のドアを少しだけ開けておいてほしいのです。

第582回定期演奏会 トパーズ〈トリフォニー・シリーズ〉
2018年1月12日(金)19時、13日(土)14時
すみだトリフォニーホール/指揮:上岡敏之