各界の著名人が、今も忘れえない「母の記憶」とその「教え」について熱く語る――。
(左)母・洋子さんは1937年生まれ。文藝春秋の編集者時代、米軍の退役中佐と恋をして長女かれんさんを出産。翌年、次女ノエルさんを出産。写真は従軍記者として赴いたベトナムにて。後に長男ローランドさんを出産、アメリカ放浪を経て作家デビュー(右)桐島かれんさん
 

世間のどんな声にも動じず、ぶれない母

母が30代のときに半生を綴った本があるのですが、それを読んだのは私が子どもを出産した後。とても衝撃を受けました。アメリカ人の男性と恋をして未婚の母となり、3人の子を養うため活路を求めてアメリカへ……。やはり母はすごいなと思う一方、私はそこまでできるだろうかと考えました。

当時は世間から、「子どもを預けて仕事をしている」とバッシングされ、いわゆるPTAママにとって、母は敵のような存在でした。かたや恋の噂がワイドショーで報じられ、“飛んでる女”ともてはやされても、母はまったく動じません。ぶれずに生きる母の姿を見ていたので、私たちも多感な時期を難なく通り過ぎることができたような気がします。

母の子育ては見事なまでの放任主義ですが、日本に帰国してからの家族4人の生活には工夫がいっぱいでした。お手伝いさんを雇い、どうしても子どもを預けられない日はちょっと良い服を着せて、仕事場近くのホテルへ連れていく。「おとなしく遊んでいて」と言い、私たちは外国人っぽい顔立ちなので「宿泊客の子どもと思われるわよ」と(笑)。母が仕事をしている間はホテルが遊び場でした。天気が良いと山下公園で過ごし、週末はよくみんなで本屋さんへ行きました。「欲しい本を1冊選びなさい」と言われ、子どもたちをそこで“放牧”。数時間、母は本屋内の喫茶店で原稿を書いていました。

結婚のお祝いにと、母から貰ったジャン・コクトーの版画。「『横顔がかれんに似ているから』と言っていましたが、家に掛かっていたものをくれただけかも(笑)」。母とは現在も「旅友」と、かれんさん。世界中を母や弟妹と旅したことが思い出深いと語る。

母は小学校の入学式や授業参観に来ることもありませんでした。運動会の日は私が3人分のお弁当をつくります。あの頃は家族でお弁当を食べるのが恒例だったので、妹や弟が独りでいないかと心配で、周りの友だちと食べている様子を見ては、ホッとしたものです。

母は忙しかったし、子どもに寂しい思いをさせているともあまり感じないタイプ。とはいえほかの子と違うことで恥ずかしさもありました。水泳の授業で紺のスクール水着を指定されても、母は海外からビキニの水着と花がついたお洒落な帽子を買ってきます。皆にからかわれ、母にワンピースの水着を頼むと、今度は花の刺しゅうがある真っ白な水着に(笑)。ついに私も仮病を使うようになり、母は「紺ならいいのね」とスカート付きの水着を買ってくれました。

そんな母が急に「アメリカへ行こう」と言いだしたのは、私が小学6年生のとき。彼女自身もメディアで何かと騒がれ、過密スケジュールに追われ、1年間の休暇が欲しかったこと。子どもたちを放任していたので、少し向き合いたいという気持ちもあったようです。