社会が変われば、活躍する男性像も変わってくる

厳しいことを言うようだが、実は私たち女性の側にも思考停止がある。

男性中心に構築された、「男の、男による、男のための労働社会」という女性にとってはどうにも走りにくいボコボコの道路で行われる市民マラソンへ“二流市民”として参加させていただいて、そこから頭角を現し、「へぇ、女でも走れるやつもいるんだな」とちょっとずつ認められていくのが20世紀だったとするならば、女性の労働参加が当然とされた21世紀は、いわば女性でもマラソンで好タイムを残すべく走れる条件の道路が親切にも整備される時代といえる。

走る女の前に道路が敷設されているのか、あるいは走った後から舗装されていくのか。その辺の感じ方は個人差があると思うけれど、とにかくそのマラソンには参加しろと言われている。しかも沿道から応援観戦するよりも、ランナーとして参加する方が社会的な尊敬を得るという風潮である。

ところが、男女ともに走れるように道路設計が変わるということは、それまで男専用にデザインされた道を走っていたり、それを念頭にいつか俺もランナーになるんだと幼少期からトレーニングに励み成長してきた男にとっては、走りにくい局面も出てくるのだ。途中棄権する男も出てくるだろう。あるいは、従来の男専用道路ではとても走れなかったようなタイプの男が、意外に良い走りを見せたりする。

挙げ句に「夫の死を願う妻たち」

こうして世間では「走れる選手像」に変化が見られてきているのにもかかわらず、女たちの好みは、相変わらず過去のマラソンで好成績を残していたような選手たちのまま変わらないとすれば、どうだろう。

自分の配偶者に従来型の「稼げて、出世もする」マッチョな男像を望みながら、一方で「新しい社会に応じた家庭力」も上積みして求める。自分に置き換えてみて「人生途中で世間の風向きに応じて生き方を変えて、新しい能力を上乗せする? そんなの簡単!」と言い切れる女性なら、既にそんな男を手に入れているのかもしれない。だけどみな、それぞれに不満や不足を感じ、キャパシティオーバーに悩み、試行錯誤し、理想と現実のすり合わせをしているというのが、現代の30~40代夫婦の等身大の姿なのではないだろうか。なぜなら、今の風向きを幼い頃にきちんと予見して育ってきたような人は決して多数派ではないからだ。むしろいま社会で「もっとも働いている層」とは、幼少期や学生時代には多かれ少なかれマッチョな社会での勝者だったはずである。

その価値観の変化を女性側で起こしていないにも関わらず、男性にあれもこれもと求めれば、夫婦間での激しい食い違いが起こるのは必然だ。挙げ句、世間体が悪いので離婚はしないが、夫が死んでくれるのを願う妻たちの存在が指摘されている。過去の数世代上の妻たちとなんら変わりのない姿に、自分たちが成り果てているのに気づかないだろうか?

○「夫に死んで欲しい妻たち」http://citrus-net.jp/article/2484