当時まだ名の知られていなかったリクルートに入社し職場で初めての産休復帰社員となった柴田朋子さんは、2児を育てながらキャリアを続ける中でさまざまな葛藤を味わってきた。雇用ジャーナリストの海老原嗣生さんの新刊『少子化 女“性”たちの言葉なき主張』の発売記念講演で語った、葛藤の中身と40年かけて変化してきた女性の働く環境とは――。

女性の働き方は確実に変わってきている

海老原さんの新著『少子化 女“性”たちの言葉なき主張』の前半部分にずいぶん、「女は働くより家に入れ」という昭和の生活像が描かれていました。それを読んで、周囲の若い女性たちは「実感ないなぁ」という反応でした。でも社会って連続してできている。私が働き出したまさに「ふてほど」の昭和期から、ちょっとずつちょっとずつ変わって今に至ります。今日は、そんな昔の思い出話をしたいと思います。

海老原さんの新著の主旨、「ここまで女性の働き方は変えられた、今度はあなたたちが変えてほしい」ということをしっかり話させてもらいます。

「4年経ったらミシン持って嫁に行け」

私が大学に入ったのは今からもう44年も前の話。バブルも始まる前の昭和真っただ中。そのころ、4大に行く女子高生なんて、本当に少なかった。行ったとしても女子大が関の山で、共学4大なんてレア中のレア。親も「4大行ったら就職ないよ、短大行きな」と強く勧めました。私は名古屋ではまあ名の知れた南山大学に入れたけれど、なんと、南山の短大は落ちている。そう、それくらい「優秀で進学を目指す女性は4大ではなく短大」が普通だったのです。

キャリアコンサルタント 柴田朋子さん
キャリアコンサルタント 柴田朋子さん(本人提供)

で、我が家は父母とも高卒だから、大学がどんなとこかなんて知らない。

入学が決まると母親から、たいそうありがたいご託宣を頂きました。

「4年経ったら、ミシンを持ってお嫁に行くのよ」って。

当時は、ローンとかクレジットじゃなくて、月賦といって、毎月お金を払い続けて、4年たったら商品がもらえるという、商品後出しの仕組みでした。大学を出るころ、支払い満了でミシンを受け取って、さっさと嫁に行け! ってこと。それくらい、女はあまり働かないままで嫁にいくのが普通、という時代でした。

その頃も、大学3年になると就活が始まるんだけど、もちろんネットなんてない時代だから、採用広告を集めた雑誌が送られてきて、それを見て応募する。それが、名古屋大の男子なら電話帳みたいなのが20冊、南山大の男子でも10冊。でも同じ大学なのに女子だとたった1冊、それも市の生活便利帳くらいしかないペラペラだった。しかも、ほとんどの採用広告には「女子は自宅生に限る」と書いてあって。あからさまに差別がまかり通った時代でした。

私は、なんとなくお茶くみのお嬢さんっていうのはピンとこなくて、男・女なく働きたかった。当時1984年だから、男女雇用機会均等法の施行2年前。だから、希望に合う企業なんて、全然ない。就職のことを大人に話すときも「仕事を頑張る」って言おうもんなら、「いやいや女の子はそんなに頑張らなくても」って、たしなめられたほどです。