なぜ徳川幕府は260年にもわたり続いたのか。歴史評論家の香原斗志さんは「家康によるルール作りが完璧だったからだ。そのひとつとして、長子を跡継ぎと決めることで、徳川家内部で無用な跡目争いが起きることを防いだ」という――。
徳川家康公像(=2018年8月9日、愛知県岡崎市・岡崎公園)
写真=時事通信フォト
徳川家康公像(=2018年8月9日、愛知県岡崎市・岡崎公園)

豊臣家の滅亡後に家康が行った大仕事

慶長20年(1615)5月7日、大坂夏の陣もいよいよ決戦の日を迎えた。茶臼山から大坂城にかけて激しい戦いが繰り広げられ、ついに城は炎上。翌5月8日、豊臣秀頼と茶々が自刃したとの知らせを受けた徳川家康は、廃墟となった大坂城に入った。安堵あんどしたには違いないが、それだけにとどまらない複雑な思いを抱いたのではないだろうか。

それから1年近くを経た慶長21年(1616)4月17日、家康は駿府城で、波乱に満ちた生涯を閉じた。数え75歳だった。豊臣家を滅ぼしてから没するまで1年足らず。だが、1月21日に鷹狩りに出かけて倒れてからは、健康とはいえない状態が続いたので、実質的に活動できたのは8カ月ほどだった。

その短い期間に、家康は休むことなく、徳川家の支配を永続させるための手を矢継ぎ早に打った。関ヶ原合戦後も、家康の征夷大将軍任官後も、多くの大名の前に権威として君臣した豊臣公儀は、もはやこの世から消滅した。いまこそ徳川公儀を確立すべき時だが、家康自身、すでに当時としてはかなりの高齢であった。このため、自分の目が黒いうちにできるだけのことをしようと、相当に急いだあとがみえる。

家康は大坂夏の陣が終わってもすぐには駿府に帰らず、二条城(京都市)に115日も滞在した。そこに公家や諸大名を招いて戦勝を祝う宴を催したが、京都に留まった主たる理由は、戦後処理とその後の体制づくりを、ひととおり終えてしまうためだった。