※本稿は、エミン・ユルマズ『米中覇権戦争で加速する世界秩序の再編 日本経済復活への新シナリオ』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
1990年当初の世界シェアは40〜50%だった
日本の半導体は1980年代半ばにそれまでトップだったアメリカを追い抜き、1990年当初まで世界の生産高の40〜50%を占めていた。
しかし、これまでの約30年のあいだにアメリカの半導体大手、台湾のTSMCや韓国のサムスン電子などとの競争に敗れ、2020年に世界シェアは6%にまで低下している。
では、なぜ日本の半導体事業がこうした状況に陥ってしまったのかというと、そもそもの要因は1970〜1990年代にかけての日米半導体摩擦の問題まで溯る。
日本の半導体メーカーは、特にDRAM(半導体記憶素子の一つ)の分野を得意とし廉価でもあった。これに対してアメリカは通商法301条に基づく提訴や反ダンピング訴訟などを起こし、1970年代末あたりから対日批判を繰り広げた。同時期の燃費の良い日本車がアメリカで売れたことに起因した自動車摩擦も少なからず影響したと思われる。
「日米半導体協定」という不平等条約
こうした経緯から「第1次日米半導体協定」が1986年7月に締結され、この協定にはアメリカ製半導体の導入を図るようにすることなどが盛り込まれたが、翌1987年4月に当時のレーガン政権は、アメリカ製半導体が日本でシェアを伸ばしていないことなどを理由に、日本製家電などに100%もの高関税をかけるに至り、全面的な日米貿易摩擦の様相を呈した。
その後、第1次協定の期間が終了すると、レーガン政権を受け継いだブッシュ(通称パパブッシュ)政権も1991年8月に再び「第2次日米半導体協定」として、日本の半導体をアメリカの規格に合わせることやアメリカ製半導体の日本でのシェアを20%に引き上げることなどを要求してきた。
この第2次協定の期間が終了する頃には日本の半導体事業は衰退してしまい、これを見計らってアメリカはようやく「日米半導体協定」の失効を容認するに至った。
当然、日本の半導体部門を抱える企業ではリストラが進み、バブル崩壊の影響もあって、多くのエンジニアが韓国のサムスン電子に流れていくことになった。これが後日、サムスン電子を世界有数の半導体メーカーに育て上げることにつながったと推測する。