マンション言語を「中国語にして」という要求も
「郷に入っては郷に従え」が通じるのは移民人口が少数の間だけだろう。移民を増やしていくのなら、日本社会において人口が減っていく日本人の価値観だけに寄せて保つのは難しい。例えばイスラム圏からの移民が一定数以上増えれば、モスクが増えたり「アザーン」の大音量を許容したり、給食メニューなども配慮する必要が出てくるだろう。また、日常の何気ない態度で単に不機嫌な時でも、民族が違えば「人種差別」と受け取られてしまうこともあるので、常に気は抜けない。
勤め先においても、例えば会社の上司に外国人が就いた時、同じ出身国の部下と日本人部下がいてどちらを出世させるか。“同胞であること”がその判断材料にならない保証はない。生活面でも、外国人は出身国同士で集住する傾向があり、すでに中国人街は全国で増えている。マンションの管理組合でも、意見集約が滞る恐れもあり、マンション言語を「中国語にして」という要求が総会で出ている管理組合もすでにあるという。
民族的多様性は、利害が衝突しない場面では創造性を高め、楽しい交流など肯定的な側面がある。しかし、時として利害対立のある日常の社会生活では、価値観の違いが摩擦を生み、必然的に「外国人問題」や人種差別なども起こりやすい環境になってしまう。
「ステルス移民政策」を続けていいのか
そもそも、国家とは文化や価値観を共有する民族単位で形成される統治の枠組みだ。移民で成り立った国や、戦争で支配地域を増やした国、アフリカなど民族地域を無視して国境線が引かれた国の統治はやはり複雑で、分断がある。長い多民族国家の歴史があるアメリカでも、白人と黒人の所得格差は1.7倍差があるという。
異なる価値観や環境で育った者同士が同じ地域で暮らすことは簡単ではない。文化摩擦や軋轢が起きないように仲良くすべきという理想と、現実に問題が起こるかどうかは分けて考える必要がある。国民が暮らすのは残念ながら理想空間ではなく、現実空間だからだ。
一方で、国民の均質性や同質性にも価値はあるはずだ。国民が民族的に同質で価値観が一つなら、統制や規律の維持が容易になる。政府がマスク着用を呼び掛けても、9割が従ってくれるのも同質性が高いからだろう。日本や中国、韓国が自由化後に急速な経済発展を遂げたのも、同一民族による統制のしやすさがその背景にあったはずだ。
間も無く、自民党の総裁選が始まる。現時点で高市早苗氏以外は移民政策に肯定的、あるいは態度を明確にしていない。各候補が、どう考えているのか、あらためてはっきり聞いてみたいものだ。


