43都道府県で障害者や高齢者の在宅ケアサービスを展開する土屋。創業1年半で従業員は1500人を超え、急成長をつづけている。高浜敏之社長は介護現場にいた30代にアルコール依存症と診断され、働けなくなって生活保護を受給した時期がある。波乱の半生は、会社経営のベースとなる哲学を育んだ――。

プロボクサーをめざした10代

土屋は2020年8月、重度障害者向けの訪問介護サービスを提供する会社として創業した。現在の社員数は1500人。訪問介護の事業所「ホームケア土屋」は43都道府県にあり、ほかに高齢者のデイサービス、訪問看護など6つの事業を展開している。

土屋 高浜敏之社長
土屋 高浜敏之社長(写真提供=土屋)

高浜敏之社長は20年に同社を起業するまで会社経営の経験はなかった。過去に訪問介護事業を立ち上げ、責任者を務めたことはある。48歳で初めて社長になったのが従業員700人、約30都道府県に事業所がある土屋だった。

高浜さんは1972年東京・昭島市生まれ。元プロボクサーの父に「男は強くなければダメだ」と言われて育ち、4歳下の弟と一緒に父からボクシングを教わった。小中学校では勉強もスポーツもできる子だった。

他人を支える仕事に就こう

進学した上智大学は2年で中退し、一度はボクシングの道に進もうとした。トレーナーにはプロライセンスの取得を勧められたがプロの世界は過酷だ。「父もプロになるのは大反対でした」。

高浜さんはプロボクサーへの道を捨て、23歳で慶應義塾大学の文学部哲学科に入学した。哲学、文学、美術などに関心があり、研究者になろうと考えていた。

しかし入学後に父が末期がんと診断され、高浜さんと弟は父の債務を負い、実家の家計を支えることになる。高浜さんは新聞奨学生となり、いくつかアルバイトを掛け持ちした。大学は一時休学し、卒業したのは29歳だった。

「本気で哲学を勉強したので、ふつうの企業に就職する気になれませんでした。そのときに読んだのが、鷲田清一さんの『「聴く」ことの力 臨床哲学試論』です」

この本に、阪神・淡路大震災でPTSD(心的外傷後ストレス障害)を負った女性の話や、精神科医が不眠症の少女に耳を傾ける場面があった。高浜さんは感銘を受け、「自分も他人を支える仕事に就こう」と決意した。

このとき求人雑誌で見つけたのが、東京・多摩市の「自立ステーションつばさ」だった。高浜さんはここで重度訪問介護を初めて経験した。

利用者の多くは車椅子で生活する一人暮らしの障害者。年齢はさまざまで、男性の利用者は男性のヘルパーがお世話する「同性介護」が原則だ。

障害に応じて食事、トイレ、お風呂、就寝などを介助し、買い物などの外出に付き添うこともある。利用者が寝ている間は見守りの時間が多いので、肉体的にきつくはない。24時間の勤務が終われば、翌日は休みになる。

「介護の仕事は、自分が働く意味が明確で、疑いようがありません。相手に不要なものを売りつけたり騙したりすることもない。ものすごく手応えがあって、いい仕事に出合えたと思いました」

アルコール依存症と診断される

介護の仕事は充実感がある半面、利用者から理不尽なことを言われて気に触ることもあった。

さらに、当時は介護の仕事だけでは食べていけず、複数の仕事を掛け持ちするなかでストレスもたまり、酒量が増え、仕事のない日は昼から酒を飲むようになった。アルコールが切れると離脱症状で手が震えだす。35歳の頃だ。

「あるとき離脱症状のパニック発作を起こし、病院でまぎれもなくアルコール依存症だと診断されました」

高浜さんは仕事を辞め、生活保護を受けながらリハビリプログラムに専念する。飲酒はすぐにやめられた。ただ、ケースワーカーから「早く就労自立しようと焦らないように」と忠告され、38歳までリハビリはつづいた。

リハビリが終わりかけた頃、アルバイトをはじめた。また障害者の介護にのめり込むとストレスが大きいと考えて、東京・中野区にある高齢者のグループホームで働きはじめた。

1年ほどたった頃、ホームの関係者がデイサービスの新会社を構想し、高浜さんは「一緒に働かないか」と誘われた。2012年に高浜さんたちは3人で新会社を創業し、高齢者向けのデイサービスをスタートした。

方針の違いを感じることが多くなり…

翌13年、障害者福祉のパイオニア的存在だった新田勲さんが他界した。

「追悼の気持ちから、新会社で重度訪問介護の事業を立ち上げました。当初のスタッフ数は50人ほどです。事業責任者になって気づいたのは、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の方々は支援が足りないことでした。これが全国展開のきっかけになりました」

高浜さんたちは、重度訪問介護が不足している地域にサービスを拡大し、サービス開始から5年後に43都道府県をカバーした。

「関東圏、関西圏を除くと、ほとんどの地域に同業者はありません。それだけ障害者支援が不足していたということです。私たちの事業所ができたことで、障害者や家族の方たちから『本当に助かった』という声をいただきました」

重度訪問介護は、全国各地で必要とされていた。社会問題を解決するソーシャルビジネスの意義を改めて感じた。高浜さんは全国を飛びまわる生活だった。

しかし、介護職の待遇改善や環境整備を進めるとともに、必要とされる限りサービスを全国で展開したいという思いを強く持つ高浜社長は、経営陣と方針の違いを感じることが多くなった。話し合いの結果、最終的には別々の道を歩むことになり、一部メンバーとともに新会社を立ち上げることになった。

コロナ禍で創業したメリット

2020年8月、土屋は設立され、ブランド名は「ホームケア土屋」に決めた。資本金100万円、従業員700人、事業所は全国約30カ所でのスタートだった。本社は、高浜さんの自宅がある岡山県井原市に置いた。

コロナ禍の最中に設立した土屋では、総務、人事、法務などの本社業務はほぼ100%リモート勤務。採用面接やミーティングもすべてオンラインだ。

「新型コロナ対策のために思いきって全面リモートにした結果、オフィス費用などを節約できて高利益体質になりました」

介護業界では珍しい給料の高さ

創設時に最も心配したのは介護業界の深刻な人手不足だった。採用活動に力を入れたくても十分な資金がない。そのときに頼りになったのは、金融業界の経験が豊富な吉田政弘さんだった。現在は同社の専務取締役だ。メガバンクを含めた複数の銀行から融資を受けられ、採用投資ができるようになった。1年後には40都道府県で「ホームケア土屋」を展開し、従業員数は400人増えて1100人になった。全国で500人以上の重度障害者や高齢者の生活を支えるまでに成長した。

2020年10月23日、創立記念イベントでの1枚。福山市・鞆の浦にて。
2020年10月23日、創立記念イベントでの1枚。福山市・鞆の浦にて。(写真提供=土屋)

24時間ケアの訪問介護は楽な仕事ではない。それでも就職希望者は後を絶たないという。

「介護分野でこれだけ給料が高い会社はほかにないと言われます。“介護難民”の問題を解決するには、介護スタッフの待遇改善は不可欠でしょう。地方では雇用創出にもなっているようです」

自身が30代の頃、介護の仕事だけでは食べていけず掛け持ちのハードワークで苦しい思いをした経験は大きいだろう。

従業員数は現在1500人を超え、創業時の2倍以上になった。正社員と登録ヘルパーは半々だ。今期中には事業所が全都道府県に設置できる見込みだ。

土屋には現在のところ競合相手がいない。利用者ニーズが高くても、重度訪問介護の新規参入は難しいのだ。

「利用者の利益を考えると、本当は競合が出てきてほしいんです。しかし現場が大変だから、そこで折れてしまうのでしょう。私たちに事業実績の蓄積があるのは大きいと思います」

ハードな感情労働

土屋では社内に「ハラスメント・虐待防止委員会」を設置している。ヘルパーさんからの相談で最も多いのは、介護現場でのハラスメントだ。利用者や利用者の家族からパワハラ、セクハラなどを受ける可能性がある。現場のハラスメントが原因で辞めていく人たちもいる。

「重度障害者介護は“ハードな感情労働”です。ヘルパーさんが現場で対応するだけでは防げません。だから会社が、聞き取り調査を実施するなど予防策を講じないといけない。当社にとっても大きな課題です」(高浜社長)

土屋では、コーディネータと呼ばれる正社員が登録ヘルパーさんをサポートするしくみがある。これまでの実績によって社内には多くのノウハウが蓄積されている。

売り上げや利益の目標を一切提示しない経営

土屋は新しい事業領域にもチャレンジしている。重度訪問介護のスタッフを養成する「土屋ケアカレッジ」、シンクタンク部門の「土屋総研」、出版部門の「土屋パブリッシング」などだ。21年11月には高齢者向けグループホームを運営する会社が子会社となり、22年1月には障害者が農業に携わる農福連携の会社が子会社となった。

「土屋では売り上げや利益の目標を一切提示していません。従業員の意識は、以前とは違っています。ミッション、ビジョン、バリューのMVVに基づく経営、MVVで牽引する組織が実現できたように思います」

経済性重視への疑問が創業のきっかけとなった土屋。MVVに基づく経営は、この1年半に見られた成長をもたらしている。高浜さんの哲学がソーシャルビジネスでどう実現されていくか、注目していきたい。