小説『Phantom』(文藝春秋)で、株式投資で己の年収と同じ配当を生むシステムを築こうとする32歳の女性と、貨幣経済を否定するコミュニティに傾倒していく彼氏の物語を展開した羽田圭介さん。芥川賞受賞から6年、歩みを止めることなく精力的に新作を発表している作家に、お金の価値観を聞いた――。

「すごい啓蒙書ができちゃった」

——『Phantom』は羽田さんならではの人間観察眼で、高度経済社会の中、這い上がろうとする男女を描いた刺激的な小説だと好評ですが、書き上げたときの手応えはどうでしたか?

『Phantom』を上梓した羽田圭介さん。
Phantom』を上梓した羽田圭介さん。(写真=本人提供)

【羽田圭介さん(以下、羽田)】「意図せず、すごい啓蒙書ができちゃったな」という感じです(笑)。作品の中に「お金ばかり増やしてもしょうがないよ」という僕の考えは入れ込みつつ、株式投資のメンタル管理なんかも詳細に書いたので、まるで実用書のように読んで「投資で頑張りたくなった」と言う人もいて、意外な受け止められ方もしましたね。

——食品会社の工場に勤める華美はなみは米国高配当株の売買に熱中しています。今回、長編小説で初めて女性を主人公にしたのはなぜですか?

【羽田】僕は現在35歳ですが、同世代でも明らかに男性より女性の方が人生のフェーズを意識している割合が高い。特に出産したいとなると、そこから逆算し仕事や恋愛についてスパッと決断する。長期投資で儲けるほど、一方では寿命も短くなってゆくことの葛藤に気付きやすいと思いました。

年収250万円の女性が、配当収入250万円を目指す

——華美が年収250万円で、株の運用益が年間80万円ぐらいというのは、現実的にありえる設定なのでしょうか。

【羽田】年収200万円台というと低い感じがしますが、実際にはたくさんいます。そういう人が投資で1億円貯めるのは難しいけれど、5000万円ぐらいならリアルに考えられるのでは。華美は将来的に5000万円を年利5%で運用し、現在の年収と同じぐらいの配当収入250万円を得て暮らそうと考えている。いわば、年収と同じ配当を生む自分の“分身”を作ろうとしているわけですが、それには実体のなさという危うさが常につきまとっているわけです。

若いときの10万円と年を取ってからの10万円は違う

——なかなか収入が上がらない時代だからこそ、少額ずつでも投資し老後の資金にしようという動きはありますね。

【羽田】でも、それを30年後に達成したところで、年間250万円の配当益を使う生活が果たして追い求めていたものなのかということも描きたかったんです。実際に投資をしている人の多くは、歳を取ったとき、自分の体力や交友関係が現在のままではないことを想像できていない。今はやりの「FIRE」(早期リタイア)を目指すにしても、倹約のために何かやりたいことを我慢するぐらいなら、投資なんてしないほうがマシですよね。明日、事故で死ぬかもしれないわけだし。

――そこは「お金は使って初めて生きたものになる」という小説の中のメッセージをそのまま受け取っていいのでしょうか。

【羽田】そうです。若いときの10万円と年を取ってからの10万円は違う。人生の時間だけは巻き戻せないのだから、「貯金なんかしないでお金を好きなことに使ったほうがいい」と身近な人たちには言っています。例えば、今はなかなか難しい状況だけれど、若いうちに海外旅行に行っておくとか。

実は5年間寝かせた作品だった

——華美が毎晩パソコンでニューヨーク市場をウォッチするなど、投資に励む描写がリアルでした。実際に羽田さんも米国株の売買をした経験がありますか。

【羽田】大学を出て1年半で専業小説家になったんですが、華美のように断りはしないまでも飲み会の誘いを吟味したり、ちょっとした楽しみを犠牲にして節約していました。しかし、書店でも小説のコーナーがどんどん縮小されていくのを見て、27歳ぐらいのときに確定拠出年金をきっかけに投資を始めました。今となってはもう冷めちゃいましたけど。

——投資に夢中になっていた時期が過ぎてから書いた小説ということでしょうか。

【羽田】本作を書き始めたのは2014年の終わりからで、原稿用紙約100枚分を書いたところで自分の興味が変わってしまった。株で資産を増やす人の切実な気持ちがよくわからなくなり、5年ほど放っておいたんです。そして、去年、その原稿を読み直したら「わりといいな」と思ったんですよ。お金に対する幻想がなくなったところで客観的に読んだので、「では、これに何をプラスすればいいか」と考えて、直幸の抱く、華美とは対極的な価値観を書きました。

オンラインコミュニティにハマる彼氏

——直幸はオンラインコミュニティでの交流に夢中になり、帰ってこなくなりますね。

羽田圭介『Phantom』(文藝春秋)
羽田圭介『Phantom』(文藝春秋)

【羽田】このコミュニティに集まっているのは貨幣経済を否定し「お金を介さないでも幸せになれるよ」と呼びかける人たち。株式投資とは相対的なものとして入れました。彼らの主張は間違っているわけではないけれど、僕と同世代から上はさんざんカルト教団のニュースを見ていたはずなのに、形を変えた何かにどっぷりハマってしまう。そんな人の忘れやすさ、学ばなさを描こうと考えました。実際に直幸のように染まりやすい人も多いですよね。日々、仕事などで疲弊し視野が狭くなると、みんな簡単にそうなってしまう可能性があります。

——資本主義のシステムを過度に利用するか全否定するか。なかなかそこでフラットにはなれないということでしょうか。

【羽田】要はバランスですよね。直幸のようにお金がなくても他人とつながっていればいいと考えるなら、ムラ社会の中で周りの評価を気にしながら生きていかなきゃいけない。しかし、本来、お金を稼いで独立して生きるということと、人とつながって生きるというのは両方必要ですよね。

芥川賞受賞後にもった“世間への復讐”という感覚

——実は華美には地下アイドルをしていた過去があり、「枕営業」というワードも出てきます。「男たちが中心となって動かしている社会に対しての復讐心があるのかも」という華美の言葉が印象的でした。

【羽田】華美のようにお金に取り憑かれる女性って何かに復讐心があると考えたんですね。主に男性が動かす金融社会でもうけて自由になってやるという……。「そっちが資本主義のシステムで冷徹にやってくるなら、こっちだって」という気持ちがあるのではないか。というのも6年前、僕が芥川賞をとっていろんな仕事をもらったとき、ちょっと世間に復讐しているような感じがあったんですよ。今の時代、みんなあまり本を読んでくれないので、その分、よその業界からという気持ちはどこかであった。

——「男だからといって女より収入が高く甲斐性がなくてはならないという世ではない」という一節も印象的です。

【羽田】経済的なところで男女関係なく上に行こうという女性は、そう言わざるをえないのでは。リスクを引き受け弱音もはかないというスタンスでないと一貫性がない。

——他にも短編映画の制作など、いろんな活動をされていますが、今後の予定を教えてください。

【羽田】10月にエッセイ『三十代の初体験』(主婦と生活社)が出る予定です。小説の新作は『滅私』(新潮社)が今年中に書店に並ぶ予定。物を捨てまくるミニマリストの男が主人公ですが、彼は株でもうけたから物を捨ててもいつでも買い戻せると思っている。つまり経済的な要素と結びついているので、『Phantom』と通底しています。兄弟か姉妹のような小説ですね。ぜひ2冊併せて読んでみてください。