体の変調や副作用……。闘病生活を陽気につづる理由
そのブログのタイトルは「ハッピーな療養生活のススメ」。38歳で子宮頸がんが見つかり、2度の手術と抗がん剤治療を受けた後、腸閉塞で緊急手術の末に人工肛門となり……と波瀾万丈な体験を顧みることから始まる。
さぞ過酷な闘病記かと思えば、〈その間、不幸だったかというと、案外そうでもありません。もちろんつらかったり落ち込む時はありましたが、楽しいことも多かった気がします〉と。抗がん剤の副作用や体の変調と向き合いながら、脱毛時におしゃれを楽しむ姿、治療中に出会った人たちとの交流など飾らぬ日常がどこか陽気につづられていく。筆者の木口マリさんはどんな思いでこのブログを書いていたのだろう。
「がんになったことで、自分の命の限度をすごく感じました。だから、生きているだけでハッピーだと思って。朝、目覚めたときに体がどこも痛くないとか、気持ちよく眠れたとか、普通に暮らせることがうれしいと思えるようになったんです」
写真家をめざしたのは33歳。本当にやりたいことをしようと貿易商社を辞めて写真学校へ。翌年からフリーランスとして出版社で働き始めた。泊まり込みの作業もこなし、「無理の利く体」だと思い込んでいた。
不正出血が気になって産婦人科を受診したのは2013年1月。検査で異常はなかったが、定期的に通院することになる。同年4月、「すぐに来てください」と電話があり、覚悟して行くと、「子宮頸がん」と告げられた。紹介された大学病院では円錐切除術という患部だけを切除する15分ほどの手術で、入院は3泊4日と聞く。家族には手術日まで1人で決めてから伝え、「ちょっとワクワク初入院」だった、と振り返る。
だが、術後の病理検査で判明したのはさらに「悪い結果」だった。
「もしかして子宮を取るかもとは思っていたのですが、左右の卵巣、骨盤内のリンパ節までも取らなければいけないと。“卵巣まで取るなんて、私は女じゃなくなるの……”とショックが大きくて、しばらく何も食べられなくなってしまって」
木口さんの子宮頸がんは腫瘤を形成しない珍しいタイプで、正常に見える細胞が徐々にがん化していくため早期発見が難しいものだった。2度目の手術では子宮とその周辺まで切除することになり、不安や恐怖が募る。そんな木口さんを家族や主治医が細やかに受けとめてくれた。
「1人で頑張らなくていいんだという気持ちになれました。手術前に先生とすごく話し合って、できれば卵巣を片方残したいという希望を聞いてもらい、看護師さんにも不安な思いをきちんと聞いてもらえたので、この人たちがついていてくれたら頑張れるような気がしたんです」
完全休業で収入ゼロ。一時金でしのぐ中、新たな試練が
手術後は6回の抗がん剤治療を受けた。脱毛や倦怠感などの副作用に耐え、体力や筋力も落ちていく。仕事の再開は厳しく、実はがんが見つかる直前に出版社と契約解除していたので収入はゼロ。女性向け医療保険に入っていたため一時金で暮らしながら、治療を終えたのは11月末。
「あとは髪の毛も生えて良くなるとルンルン過ごしていたら、1カ月経たない頃にお腹に激痛が走り……」
危険を感じて救急車を呼び、大学病院へ搬送される。検査をしても原因がわからず緊急手術に。術後にICU(集中治療室)で目覚めると、傍らに来た医師から、腸閉塞の中でも重篤な症状で腸はすでに壊死して破裂寸前だったこと、しかも「人工肛門にしました」と告げられたのだ。
「その瞬間、体がベッドにずぶずぶと沈んでいく感じ、泣きたいとか嫌とかも思わない。周りの物音もすごく遠くに聞こえ、自分だけ殻の中にいるように静かでした。それからは何もかも面倒くさくなって、やさしく笑いかけてくれる看護師さんにも『ほっといてくれ』と思うばかり。誰も私に近づかないでほしいというくらい、心をぴしゃりと閉ざしてしまった感じですね」
退院後は筋力もなかなか回復せず、仕事をしていないことにも焦りを感じる。それでも自分の経験を生かせたらと始めたのがブログだった。療養中にスマホで撮った写真も交え、病気を通じて感じた思いをつづる。
「毎日泣いていたけれど嫌じゃなくなりました」とコメントも届いた
人工肛門を付けていた半年間も普通の生活を楽しもうと、お腹に装着した袋をカバーするグッズをつくり、温泉やプールに入ったり、沖縄旅行へ出かけたり。明るく前向きなブログを読んで、同じ悩みを抱える人から、「毎日泣いていたけれど嫌じゃなくなりました」とコメントも届いた。
ブログファンから依頼された復帰第1号の撮影では、カメラバッグを担いで名古屋出張をこなし、さらに短大の非常勤講師の職も舞い込んだ。木口さんはがん関連のボランティア活動にも参加するようになり、医療系の取材や講演などの仕事も徐々に増えていった。かつて勤めた出版社は自分の働き方に疑問を感じて辞めたが、病気を経て、仕事への意欲が変わったという。
「もともと写真を始めたのは、私は見ることができても、ほかの人は経験できない世界を伝えたいという思いがあったから。ただ実際にどうやっていいのかずっとわからないままでした。けれど、がん関係の仕事をするようになって、本当にやりたかったことに気づいたんです。悩んでいる人の役に立つこと、つらい思いの中でもちょっと楽になれること。私はそういうものを届けたいんだと」
療養中は多くの人たちに支えられてきた。そこで患者や家族・友人、医療従事者たちの思いを伝えたいと、写真とストーリーを募集し、病院スタッフと協力して写真展を開催。寄せられた作品を展示すると、それを見た別の患者から「すごく温かい気持ちになった」と喜ばれ、出展した人にも「がんになって初めて良かったと思えた」と言われた。
患者は助けてもらう弱い存在と思われがちだが、「誰もが人に力を与えることができる」と気づいた木口さんは、「がんフォト*がんストーリー」というウェブサイトを設立する。世の中の「がん」のイメージを変えていきたいという願いがあった。
自身もフリーの身では明日への不安もさぞかし大きかったと思うが、いかに乗り越えてきたのだろうか。
「私は打たれ弱いというか、実はとても繊細で傷つきやすい。不安や恐怖を回避するため鎧に身を固める人もいるけれど、もっと強い衝撃を受けたら壊されてしまう。私は弱い人間だとはっきり認めたうえで、逆に柔軟になることを選びました」
がんの治療を「闘病」ではなく「療養」と言うのは、あえて闘おうとは思わなかったから。どんな困難に直面しても、頑張って立ち向かうのではなく、自然体で受けとめる。無理せず、自分の心に従順に生きていれば、自ずとやりたい方向へ進んでいけるだろうと思えるようになった。「困難はより良い自分をつくるための素材でしかないし、その経験は絶対に無駄にはならない。すべて自分の将来か、誰かの役に立たせることができるから」と木口さん。
がんになったことで、人生に無駄なことをやっている時間はないとも気づく。だからこそ本当にやりたい仕事をやり、毎日の生活も大切にする。カメラを向けるのは、温かな人の笑顔や野に咲く愛らしい草花。生きているだけでハッピーと、語りかけてくれる気がして――。