大学、大学院では産業用機械の制御を学び、工業寄りのキャリアを築いてきた加藤百合子さんが、子どものころに関心を持っていた農業をやろう、と原点に立ち返ったのは、2人目出産のタイミングだった。結婚後に移り住んだ夫が働く静岡県で農業に足を踏み入れ、大勢の人たちを巻き込みながら国内、そして世界に向けて事業を広げている加藤さんの、事業に対する思いや原動力とは。

野菜の共同配送で流通を変える

「『やさいバス』は今、モテモテなんです」

新型コロナウイルス災禍の影響もなんのその、さわやかな笑顔でそう切り出したのは、農業分野の課題解決を手掛けるエムスクエア・ラボの加藤百合子さんだ。

エムスクエア・ラボの加藤百合子さん
エムスクエア・ラボの加藤百合子さん

加藤さんがエムスクエア・ラボを立ち上げたのは2009年。農業と、ほかの技術や産業を組み合わせることで課題解決を図りハッピーに、と「農業×ANY=HAPPY」を企業理念に掲げ、現在は生産、流通、アグリテック、人材育成といった4本の分野を柱に事業展開している。地元の大手企業である自動車メーカーのスズキや、物流企業の鈴与からも出資を受ける。加藤さんは2020年6月に、スズキの社外取締役にも就任した。

エムスクエア・ラボの流通分野の主力となっているのが、やさいバスだ。

農産物は、鮮度を保つために温度や湿度管理が必要でスピードも求められ、運送料が割高になり、販路を広げることが難しかった。やさいバスは、まるで乗り合いバスのような共同配送の仕組みでこうした課題を解決し、レストランや小売店などの買い手と生産者をつなぐ。

静岡県発の農産物流通ネットワーク

冷蔵設備を持つやさいバスは、直売所や道の駅、青果店、卸売業者の倉庫などの“バス停”を巡回する。生産者は、買い手から注文が入ったらバス停に農産物を持って行ってやさいバスに載せてもらう。一方、注文した買い手は、最寄りのバス停に、農産物を取りに行く。共同配送によって輸送コストが軽減でき、生産者と購入者が直接つながっている。

エムスクエア・ラボが手掛ける「やさいバス」
エムスクエア・ラボが手掛ける「やさいバス」

「食の分配方法を考えることが社会構造全体を考えることになる」という加藤さんの地域デザインの発想が多くの人の心を動かし、地元静岡県を拠点とする大手物流企業の鈴与や、農林水産省が設立した官民ファンドの農林漁業成長産業化支援機構(A-FIVE)、博報堂から出資を受けている。事業は静岡県からスタートして、長野県、東京都、神奈川県、茨城県に広がっており、6月にはヤマト運輸と連携してさらに輸送ネットワークが強化された。確かにやさいバスは、モテモテだ。

「やっぱり農業だ」2人目の出産で起業を決意

最初に加藤さんが農業の危機を感じたのは中学生のころ。

「レイチェル・カーソンの『沈黙の春』を読んで、『ヤバい、地球から食糧がなくなっちゃう』と心配になったんです。そのころ『ドラえもん』でも環境問題を扱ったストーリーがあって、さらに『これはまずい』と。とにかく心配症の子どもだったんです」

その後、東京大学農学部に進学し、産業用機械の制御を学ぶ。イギリスの大学院を終えた後にアメリカ航空宇宙局(NASA)のプロジェクトに参画するなど貴重な経験も経て、卒業後はキヤノンに就職。結婚を機に退職し、夫が働く静岡県菊川市に移住して、夫の親族が経営する会社で産業用機械の研究開発に携わった。

転機は2人目出産のとき。主力商品につながる発明もして売り上げにも貢献したが、それでも「夫である『後継者』の妻」という立ち位置は変わらない。小休止のタイミングで「研究開発はやり切った。で、私、本当は何がやりたいんだっけ?」と自分の人生を振り返った。

「そこで、社会課題や環境問題、食の問題解決をしたかったことを思い出して、『やっぱり農業をやろう』と思ったんです」

地元の大学を入り口に農業に参入

とはいえ、農業は保守的な業界だ。そもそも“新参者”が簡単に入っていけるものなのだろうか。

「農業界には、『誰かに助けてほしい』という課題がいっぱいあるんです。課題の整理が難しくて入り口が見えないくらい。そうした意味では、課題解決があまりに難しくて入るのは大変です。ただ私がラッキーだったのは、関わった入り口が大学だったことです」

ちょうどそのころ、地元の大学が行政や企業と手を組み、地元の農業の課題を解決するためのビジネスプランを考える、農業スクールを開校していた。半年間で週1回というゆるやかなカリキュラムに、加藤さんは「これなら通える」と申し込んだのだ。

「私は、日本の農業があまりにクローズドで、その課題すらも周りにわかってもらえていないことに忸怩たる思いを持っていました。そこで、農業の情報を世界に発信するという事業プランをつくったんです。それを、参画している組織の方々に評価していただき、そこからプロジェクトを始めることができました。『元気なお姉ちゃんが静岡の農業に来た』と知らしめた(笑)」

農家の声から生まれた新事業

しかし、最初に手掛けた情報関連事業は「にっちもさっちもいかなくてすぐに撤退」。次に、農家を訪ねて、そのインタビューを5カ国語のブログで発信するという事業を2年間続けた。かつて携わっていた工業の世界では、日本も世界と互角に戦っていたのに、農業が国内に閉じこもっていたのがふがいなかったのだ。

「今は影も形もありませんが(笑)、海外からからの問い合わせもあり、世界に向かって開くとそれなりにアクションがあるという手ごたえは得られましたね」

そういった活動を通して農家と話すうちに、大きな課題が物流にあることが見えてきた。

「農家がそれぞればらばらに宅配便を使ったり車を走らせてたりして配送すれば、コスト高になるのは当たり前。ならば、集配先も配達先も集約し、なるべく1台の車に多く載せて走らせたほうが、コストも安くなるし手間も減り、農家も生産に集中できる時間が増やせます。物流の問題をクリアできれば、いろいろなところがうまく回ると思いついたのです」

「やさいバス」のバス停を担う、静岡市の八百屋「カネタツ」店長(右)と加藤さん(左)
「やさいバス」のバス停を担う、静岡市の八百屋「カネタツ」店長(右)と加藤さん(左)

こうして生まれたやさいバスだが、始めてみると、そう簡単には進まなかった。農家に、慣れ親しんできた「これまでのやり方」を変えてもらうのは一苦労だった。

「以前は好きな時間に配送業者に取りに来てもらっていたのに、バス停にやさいバスが来る時間に合わせて農産物を持って行かなくてはならないというのは、大きな変化。これを納得してもらうのは大変でした。また、コスト削減のためにペーパーレスにしていたのに、ITにはアレルギーがある方も多く、『なんでファックスじゃダメなんだ』と言われることも」。しかし、売り手、買い手の双方にメリットがあることを丁寧に説明し、その良さを実感してもらうにつれ、利用者も増えていった。

さらに、今回の新型コロナウイルス感染症拡大の影響で、売り先を失った農家から相談が殺到し、利用者は2カ月でほぼ倍に増えた。売り上げ自体は以前に比べて4割もの減少になったが、結果的にコロナがやさいバスの利便性に目を向けてもらうきっかけになったという。

儲けを考えるとアイデアは陳腐になる

エムスクエア・ラボの創業が2009年。以来、農業に関わるさまざまな事業にチャレンジし、準備に2年あまりをかけたやさいバス事業が2017年に始まったこのころから、ようやく会社の経営が軌道に乗り始めた。

野菜を共同配送する「やさいバス」
野菜を共同配送する「やさいバス」

どこから手を付けたらいいかわからないほど、課題だらけだという農業の課題解決に取り組む加藤さんだが、事業のアイデアはどのように生み出しているのだろうか?

「お金のことを考えると陳腐な解決策になってしまうので、儲けはとりあえず置いておいて、本来の理想に立ち返ります」

加藤さんの発想はスケールが大きい。「人類の繁栄と農業は切り離せないんです。狩猟生活だと、いつ食べ物が手に入るかわかりませんが、農業ができて、やっとその不安から解放された。根本的な農業の価値って何だろう? 『生きる』って何だっけ? というところから事業を作っているつもりです」

リーダーの思想に灯がともると、そこに多くの人が集まってくる。

「私は研究者なので、事業で未来をつくろうとするときは、『人類のテーブルを広げる』ことを考えます。単に自分の会社を大きくしようということではなく、人類の可能性を広げるために、誰も踏み入れていない場所に踏み込み、誰もマネできない構想で踏み込んでいきたい。それを私は、“エッジを刻む”という言い方で表現しています」

「エッジを刻むときには、1社ではできないので、行政や企業、一般の人など、いろいろな協力者が必要になります。思想が伝わると動いてくれることもあるし、数字的なメリットがないと動いてくれないこともある。いろいろなバランスが求められるんです」

“経営者”になるために必要なこと

研究者、技術者としては多くの実績を重ねていた加藤さんだが、「『経営者』になるのは時間がかかったかな」と振り返る。メンバーそれぞれが能力を発揮しながら、同じ方向に向かって頑張れるチーム作りや、組織をまわすための経営管理も求められる。「過去には、ある業者に売掛金未回収で逃げられたこともあります。経営コンサルタントの兄に言わせると『勉強代だな』と(笑)。自分で決断して失敗して、尻ぬぐいして……というのを何回か繰り返さないと経営者にはなれないんだと実感しました」と話す。

「失敗しても逃げずに正面から対峙する。それだけは守っています」という加藤さん。失敗は数えきれないほどあるが、「私の場合、失敗したら、だいたい言いふらしますね(笑)。そうすると、どこかから回答がやってきますから」と語る。

食をフェアに流通させるしくみを、静岡から世界へ

「命がけで生み出した」というやさいバス事業は、「世界の食をフェア(公平)に流通できるようにする力を持っていると思うんです」と話す。既に、ケニアや南アフリカ、インドなどで展開できないかという話も上がっているという。

巨大なグローバル企業が各地の流通を独占するのではなく、「それぞれの地域の人たちがつながることで、その地域が食で満たされるというネットワークを作る。やさいバスはそんな思想で作られているので、これを世界に広げることが目標です」と意気込む。

松坂屋静岡店の店頭に並ぶ、「やさいバス」の野菜
松坂屋静岡店の店頭に並ぶ、「やさいバス」の野菜

加藤さんは、そもそもこうした事業のアイデアは、静岡にいたからこそ生まれたのかもしれないと話す。

「私はほぼ東京で育ったんですが、東京のことは“魔界”って呼んでるんです。楽しいところだけど、あわただしくて、いつも追い立てられているような気分になる。静岡にいると、情報は自分から取りに行くものですが、東京にいると情報は勝手にどんどん目に入ってくる。そうすると自分の信念が影響されやすくなってしまうんです。そういう状況では、こんな事業は生み出せなかったんじゃないかと思います」

「冬も暖かいし、食べ物もおいしいし、本当にいいところですよ。みなさん、Welcome to 静岡です!」と笑顔を見せてくれた加藤さん。静岡発のネットワークが、日本中、そして世界中に広がる日が楽しみだ。