社会に出て20年近くかそれ以上……キャリアを積み上げてきた女性たちにとって、今回のコロナ危機はどのようなことを意味するだろう。どのような機会にできるだろう。まだまだ渦中ではあるものの、だからこそ考えられることがある。
女の子の手に赤ワイン色のマニキュア
※写真はイメージです(写真=iStock.com/Emilija Randjelovic)

これは何の機会なんだろう

新型コロナウイルス問題が日々深刻さを増し、世界中の人々の生活や働き方が大きく変化していく。いまやコロナウイルスはどの国の誰にとっても人ごとであるわけがなく、コロナと闘う主語は特定の国でも都市でも年齢層でもない、「人類」だ。コロナと闘う日本の専門家たちは、この事態を「第2次世界大戦以来の危機」と呼んだ。

様々な制約がかかり、余裕がなくなることも多い中で、個人も社会も、これまで普通にしていたことができなくなる。どうにかやり過ごせていたことが立ち行かなくなったり、隠れていた本音があらわになったりする。良くも悪くも、これまでは忙しさを理由に後回しにしていたことと否応なく向き合うことになって、何かに気づいたり、発見したこともあるかもしれない。日本の7都府県が緊急事態宣言下にあるいま、キャリア女性たちはこれをどういう機会と受け止めて前に進めばいいのだろう。

7年ぶりにジェルネイルを手放した理由

緊急事態宣言を契機に、私はいつもピカピカに盛っていたネイルを手放した。この筆者は何を馬鹿なことを言い出すのか、この人類の重大時にくだらないことを等々、たくさんの「けしからん」や嘲笑が聞こえてくるようだけれど、私には大きな意味のあることだった。

「首相、緊急事態宣言へ 7日にも発令」との速報があった朝、すでに活動自粛で人混みへ出かける用事をなるべく回避していた私は、意を決して都心のネイルサロンへ連絡をし、マスク姿で出かけた。

自粛中に「意を決して」ネイルをつけてもらいに行ったのではない。2013年の欧州からの帰国以来毎月必ず通ってメンテナンスし、7年もの間、1日として私の手指の上に載っていないことのなかったジェルネイルを、すべて外しに行ったのだ。しばらく外出が困難になるから、プロのネイリストさんによる定期的なメンテナンスの必要がないように。7年ぶりに武装を解いた私の裸の爪は、薄くて少し頼りなくて、すーすーした。

ワーママにとって「たかがネイル」ではない

たかがネイル、たかが美容、たかがそんなこと。でも私の中でジェルネイルは、「仕事だけをしていればいいという身分ではない。子どもがいて、家族がいて、色々なことがあって、実際はくたびれた40代の女で、それでも仕事をし続け、人前に出続ける」というワーママの意志の表れ、武装として、重要な意味を持っていた。

大学卒業時には子どもがいて、その後専業主婦人生からライターのキャリアを始めたばかりの頃、名刺交換の時に同世代のキラキラしたキャリア女子たちの「炊事も家事も縁がない」綺麗に塗られた指先と、自分の節くれだって乾燥して爪が割れ、洗剤負けのあかぎれさえ走っているような指先が対面するたび、私は恥ずかしくて仕方がなかった。自分が素人だという気がした。

でもマニキュアなんて自分で塗ったって、そもそも主婦はマニキュアが乾くまで優雅に待てるような時間がない。つい目についた汚れを拭こうと台拭きを握って繊維の跡をつけたり、家族の誰かに呼ばれて何かの用事を手伝った拍子にヨレたり。マニキュアは、忙しい女の手には不向きだ。

だから、一度UVライトで樹脂が固まったらヨレず、すぐにコメも研げれば洗濯物だって畳める、もちろんパソコンを打つのなんてノープロブレム、無敵のジェルネイルが女性の間でどっと流行り始めたとき、そりゃそうだろうと思った。よくよく考えると、あの頃「炊事も家事も縁がない」綺麗な爪をしたキャリア女子たちも、ちょうど絶賛婚活中とかそんなだったような気もする。彼女たちにも彼女たちの理由と努力があったのだという気がする。女はみんな忙しい。だけど綺麗にもしていたい、そう思う女たちは主婦もキャリア女性も、一斉にジェルネイルへシフトした。

ワーママを舐めんなよ

私は欧州から帰国したタイミングで、日本ですっかり普及していた念願のジェルネイルを載せ、「家事も仕事もする」ワーママの意志の表現として、武装を開始した。派手で個性的なネイルを身上に、「またすごい爪しているね」「飽きないの」「お金かかるでしょう」と色々な男女に呆れられるのを、本当の理由はあまり語らずに「女のネイルは、男のプラモみたいなもので、オタクな趣味なんですよ~」と笑った。意図的に目立たせた派手さは、まだ女性活躍推進法以前で“ママ”をお客さん扱いするビジネス社会に向けて、言葉は悪いが「ワーママを舐めんなよ」というメッセージでもあった。

40女の使い込んだ手

あるとき、ワイングラスを握る私の手を見て「ネイルは派手だけど、私と同じ、40女の使い込んだ手をしているね」と指摘した女性がいた。彼女もまさに「舐めんなよ」タイプのワーママで、私が答えずにニヤッとすると、彼女もニヤッと返してきた。

そして裸の手になったいま、時間だけは十分にある中で思うのだ。これまでワーママとして、社会に色々な感情を持っていたけれど、7年間爪の上にジェルを載せてひたすら原稿を書いたり人に会って話を聞いてきたりした結果、あの数々の感情はだいぶ成仏したな、と。私も歳をとったし、子どもも成長したし、社会も随分変わったな、と。武装は解け、緊張や攻撃的な感情は成仏し、私には裸の「使い込んだ、仕事をする手」が残った。

暮らし、働き方、キャリア……人生の「引き算」を考える

「じっと手を見る」。

私は、いま仕事を持つ女性の多くが、多かれ少なかれ人生の棚卸しと整理をしているはずだと考えている。あまり積極的に使う言葉ではないけれど、断捨離と言ってもいい。

自分に高めのハードルを課して克服することを続けてきた、頑張り屋の女性が陥りがちなのは、勢いに乗ってあれもこれも手に入れ、あれもこれもやる、足し算に次ぐ足し算。さあ、ここからはじっくり考えながらの引き算の時間だ。自分にはいまどれだけのキャパシティがあって、何を持っていて、何が大切で、何をもう手放してもいいのか。自分は、どこまでできそうか。前に進むために、いま何を準備しておくか。思いがけぬ巣ごもり生活のおかげで、考える時間ならたっぷりある。

このコロナ禍では、特に初期にインフォデミックという象徴的な造語も出たほど、社会不安、憎悪の増大が見られる。ここからさらに社会の不寛容は増していく、と指摘する識者もいる。困難な時期を迎えて一層あぶり出された、不穏でフェイクで愚かな人間社会。私たちは同じように「不穏でフェイクで愚か」になってしまったら飲み込まれていくだけだ。「穏やかで信頼でき、賢い」、そんな暮らし、キャリア人生をコロナ後も紡いでいくために、私たちはいま個人レベルでできることをじっくり、誠実に模索したい。