新部門への異動で夢を打ち砕かれた
今は人材紹介の大手として知られるマイナビだが、紹介事業を専門に手がける「キャリアバンク事業部」が設立されたのは2002年のこと。山本智美さんはそのスターティングメンバーとして他部署から異動し、以来、一貫して紹介事業の責任者を歴任してきた。
「部内にはもちろん社内にも誰一人経験者がいない、まったくのゼロスタートでした。しかも管理職の年上男性3人と私だけ(笑)。当時の私にとっては夢を打ち砕かれるような異動で、これは辞めろってことなのかと悩みました」
異動になる前の職は雑誌編集。実は、この編集職こそが山本さんの入社以来の夢だったそう。最初に配属されたのは、希望とは違う採用コンサルティング営業だった。それでも、顧客とじっくり向き合う仕事にはやりがいがあり、楽しみながら成果を出すことができていたという。
そして、この職で成果を上げたことが、思いもかけず夢の実現につながった。山本さんの営業手腕は会社から高く評価され、たびたび編集職への異動願いを出していたこともあって、大阪支社から東京本社へ、就職情報事業本部の営業から出版事業本部の広告営業へと少しずつ編集職に接近。入社から7年後、ついに編集者の名刺を手にした。
やりがいを見いだそうとする姿勢が高評価に
「夢がかなった瞬間でした。30代に入って、もうこのままずっと営業なのかなとあきらめかけていたので、心底うれしかったですね。編集職は本当に楽しくて、毎日ワクワクしながら仕事に取り組んでいました」
ところが翌年には出版不況に陥り、その雑誌の編集部は解散してしまう。それだけでもショックだったのに、同僚たちが他誌の編集部へと散っていく中、山本さんだけがキャリアバンク事業部に異動。職種も営業職に逆戻りし、涙が止まらなかったという。
会社からすれば、新しい事業を成長させるためには山本さんの営業力が欠かせないという判断だっただろう。だが、本人からすれば、編集職に就く上で武器になった営業手腕が、今度は意に反した異動の決め手になってしまった形。「こんなはずじゃなかった」とモチベーションは急降下した。
「人生最大のピンチでした。転職も考えましたが、応募者として人材紹介会社を回ったら、私の経歴だと編集職より営業職のほうが圧倒的に有利だったんです。それならと覚悟を決めて、目の前の仕事に真正面から向き合うことにしました」
気持ちが上向き始めると、仕事の面白みも見えてきた。さまざまな業界の人と会い、募集企業と応募者のマッチングに駆け回る日々。新設の部署だけに自由度も高く、自分の工夫次第で売り上げが伸びていくところにやりがいを見いだした。2年も経たないうちに、山本さんは部署全体の8割を売り上げるトップ営業マンに成長。課長を経ることなく、いきなり部長に抜擢された。
組織の中で働いていれば、思い通りにならないことも多々起こる。だが、やりがいを見いだそうと進み続けたことがキャリアの成長につながった。今では、編集部で過ごした日々を「奇跡の1年」と宝物のように語る山本さん。この前向きな姿勢が、さらに次の扉を開いた。
社長時代、大赤字のピンチから大逆転
人材紹介市場が急激に伸び始めた2007年。キャリアバンク事業部が「毎日キャリアバンク」として分社化され、山本さんは代表取締役社長に就任する。ミッションはただ一つ、事業の急成長だった。
そこからの山本さんの活躍は、同社の成長ぶりを見れば明らかだ。分社化の時点で赤字だった業績は、約2年後、リーマンショックが起きたにもかかわらず過去最高の利益を出して黒字に反転。社員数も大幅に増え、グループに欠かせない事業として認められるようになった。
「でも、失敗も多かったんですよ。事業成長を急ぐあまり、多少不向きな人でも、まずは営業職として売り上げを作ってもらう配置をしたり、リーダー不足のため、時期尚早でも管理職に昇進させたことなどで、離職率が上がってしまって。成功体験を得られるまで、時間を与えてあげられなかったことが一番の要因でした」
今は大きな組織になり、職種や職位とのミスマッチを解消できる受け皿もあるが、当時は組織も小さく、本人の適性ありきで配置する受け皿がなかったという。山本さん自身もとにかく増員スピードを重視し、一刻も早く赤字から脱却することに無我夢中だったそうで、「社員一人ひとりへの配慮も足りず、社長としての痛みをたくさん経験しました」と振り返る。
ただ、事業が黒字化し、グループ内で注目を浴びるようになると、これまでの苦労は報われ、社員のモチベーションは自然に上がっていく。山本さんが失敗から学んで適正配置を重視するようになったこともあり、会社は「人が辞める組織」から「人が育つ組織」に変貌した。
急成長の陰では、風当たりの強さにも悩まされた。急な拡大でオフィスが手狭になり、当時できたばかりの高層オフィスビルに移転した時のこと。グループ内から「まだ赤字の小事業部が何であんな家賃の高い所に」という声にもさいなまれた。
移転先を決めたのは親会社の社長だったが、山本さんは「私も若くてイケイケだったから(笑)」、喜び勇んで移転。だが、思わぬ批判に悩まされ、しかもその直後にリーマンショックが起こる。
「家賃のために働いているような毎日でした。そこで勝負に出ようと思って、他社が手薄だったメディカル領域に注力したんです。できることを全部やった結果、リーマンショックの中で初の黒字化を達成することができました。この大逆転がなかったら、首が飛んでいたかもしれませんね」
まさに大ピンチからの一発逆転。これをきっかけに会社は順調に滑り出し、批判の声もなくなった。そして、この大逆転のおかげで安心できたことがもう一つ。心置きなく産休・育休に入ることができたのだ。
キャリアは自分の思いだけでは作れない
「あの時もし黒字に転換していなかったら、自分の首を心配しながら産休に入っていたと思います。年齢的に、仕事を優先して出産は後回しにするなんて選択肢はなかったので、安心して休みに入れて本当に幸運でした」
不本意な異動は評価を高める機会に変え、世界的不況では今も続く新たな事業領域を開拓──。今のキャリアがあるのは、最大のピンチを最大のチャンスに変えてきたからこそと言えるだろう。つらい時期にもなぜへこたれなかったのか。山本さんは「どんな時も、いい加減には仕事しないと決めていたから」と語る。
嫌だと思っても、常に目の前の仕事には誠実であろうとし、人の期待に応えようとしてきた。そこから少しずつ突破口が開けて、チャンスの糸口が見えてきたのだという。
「やりたくないことにも全力で立ち向かっていれば、いずれやりたい所へ渡る船が見つかると思うんです。キャリアって自分の思いだけでは作れないもの。評価してくれる人の声に耳を傾けて、時には川の流れに身を任せて、与えられた場で全力を尽くす。そうすれば、選択肢は必ず広がっていきます」
泣く泣く異動した部署は今、マイナビブランドの顔として知られるまでになった。毎日キャリアバンクは、社名変更と本社合併を経て「マイナビ紹介事業本部」となり、山本さんはその本部長とマイナビ取締役を兼務する。
社長や取締役は常に最終ジャッジが求められる立場。この立場になると、ダメ出しする人もほめてくれる人もいなくなるため、自分で自分を厳しく評価する能力が必要になるという。若い頃は自分の夢に向かって猛進した山本さんだが、社長を経験して以降、常に頭にあるのは「無私」の2文字だ。
「すべてを自責で考え、私心のない状態になれるかどうか。社長や役員は、そうありたいというマインドがまず問われると思います。『無私』の実現は簡単ではありませんが、責任を持つということの重みをしっかり受け止めながら、自分を成長させていきたいですね」
■役員の素顔に迫るQ&A
Q 好きな言葉
ケ・セラ・セラ、継続は力なり、仕事の報酬は仕事
Q 趣味
洋服のオーダーメイド、家族旅行
「仕事用の戦闘服でもあるスーツをいかにエレガントにするか、友人のデザイナーと相談しながら仕立ててもらっています」
Q 愛読書
『日月抄』白洲 正子
『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原 猛
Q Favorite Item
スカーフ、セカンドバッグ
「スカーフは取締役就任時にクライアントでもある恩師からいただいたもの。セカンドバッグは職場用で社内各所への移動や近場への外出時に重宝しています」