精鋭が集まる花形部門のリーダー
20代にはいったん専業主婦の道を選び、30代は4人の子育てと仕事に奮闘、40代では管理職の職務に悩み続け、50歳で会社初の女性役員に。中村さんの軌跡をたどると、数人分の人生をギュッと詰め込んだような濃密さに驚く。「何事も経験してみなきゃわからないから」と、挑戦を繰り返すうちにこうなったそうだが、もともとはそんなスーパーウーマンを目指す気などなかった。
「役員も遠い雲の上の存在だと思っていました。だから話をいただいた時は、私にできるんだろうかという不安しかありませんでしたね。社長にもそう伝えたら『今と同じようにできることを一つずつやっていけばいいんだよ』と言ってくださって。背中を押していただきました」
現在は、主に富裕層の資産管理を手がけるプライベート・バンキング部門の部長も兼務している。金融業界では花形とされる部門だ。中村さんは「目の前のことを一つずつやってきただけ」と謙遜するが、突出した成果を出し続けた営業ウーマンとして社内では、営業担当の女性なら憧れの存在だという。
証券会社の営業担当から専業主婦へ
中村さんのキャリアをたどってみよう。1991年、営業として日興證券(現SMBC日興証券)に入社。しかしその直後、証券会社の損失補塡問題が発覚する。思い描いていた仕事とは真逆の、営業停止やクレームへの対応に追われる日が続いた。4年間はがんばったものの、「ここでずっとは働き続けられない」と退職を決断。結婚が決まったこともあり、心機一転しようと他社で営業事務の職に就いた。
「最初の出産を機にそこも退職しました。出産したら家庭に入るのが普通だと思っていたし、専業主婦への憧れもあったんです。そのうち2人目も生まれて、しばらくは主婦業に専念していました。自分ではいい経験ができたと思っています。子どもと向き合う楽しさも、家事をきっちりやることの大変さも、身をもって知ることができたので」
そのまま主婦業を続ける道もあっただろうが、2年たった時、転機が訪れた。そろそろ働いてみようかなと派遣社員になったところ、日興證券の同期から「どうせ働くなら戻っておいでよ」と声がかかったのだ。復帰したい気持ちもあったが、子どもたちはまだ2歳と3歳。自分にフルタイムの仕事と育児を両立できるのかどうか、さんざん迷ったという。
「一人でやらねば」が招いた大失敗
「結局、両立も経験してみなきゃわからないんだから、やってみてから判断しようと思って営業への復職を決めました。まだ若くて気力も体力もあったので、チャレンジはできるうちにしなきゃもったいないなと」
この決断がなければ、今のキャリアもなかっただろう。人生に新たな選択肢が現れると現状維持を選ぶ人も少なくないが、中村さんは逆で、変化にワクワクするタイプ。しばらく同じ環境が続くと、新しい場所で自分を試してみたくなるのだそうだ。この時のことも「両立してみて自分はどう思うのか、家族はどう思うのか知りたかった」と振り返る。
32歳で日興證券に復職し、ここから奮闘の日々が続く。2人の子育てと仕事を両立しながら、営業ウーマンとしての手腕を発揮し、ITバブル崩壊を乗り越え、さらには第3子を出産。約半年の産休・育休はとったものの、その後も夫に負担をかけまいと家事育児を一人でこなし、仕事でも周囲に迷惑をかけまいと一生懸命がんばり続けた。
もう少し周囲に甘えてもよかったのかもしれない。両立支援制度がある今と違って、当時の働くママを支えていたのは“周りの好意”。中村さんの職場にも支えてくれる人はいたそうだが、迷惑をかけるのが心苦しく、「一人でやらねば」という思いに駆られていたという。
「家庭と仕事のスケジュールを全部書き出して、やり終えたことから塗りつぶしていく毎日でした。予定をこなすのに必死で気持ちに余裕もなく、子どもを急かしたり、つい当たったりしてしまったことも。仕事を少し人に任せるなどして、時間にも心にもゆとりをつくるよう努力すべきでした」
全部自分でやらなければ、もっと実績を上げなければ……。そんな、がんばり屋ほど陥りがちな考え方は“抱え込み”につながりやすい。中村さんはまさにその通りの道筋をたどり、限界ギリギリまで抱え込んだところで、ある日バッタリと倒れてしまった。
他の人にはわからない仕事を大量に残し、引き継ぎもできないまま即時入院。その後約1カ月半は会社を休むことになった。周囲に迷惑をかけまいと思うあまり、家族から職場、顧客にまでかえって大きな心配と迷惑をかける結果になってしまったのだ。この経験を、中村さんは「人生の中で最大の失敗」と語る。
自分を過信して、一生懸命やれば何とかなると思い込んでいたこと。目先のことに必死で先々の危機管理能力が低かったこと。自分が「完璧にこなせている」と思いたかっただけで、実は自己満足でしか動いていなかったこと──。多くのことを反省し、以降は仕事への取り組み方に“余裕”を残しておくよう心がけるようになったという。
初の管理職で得た“チームづくりの極意”
40代半ば、大宮支店の営業課長にキャリアアップ。初めての管理職だったが、自ら手を挙げたわけではない。「辞令を受けたので」、やるしかないと腹をくくっての出発だった。
「その時は子どもが4人になっていたので、両立しきれなくてまた皆に迷惑をかけるのではと不安だったんです。でも、平日は義母が家事育児をサポートしてくれることになったので、じゃあせめて週末は自分で精いっぱいやろうと。職場で『土日は絶対に出社しないから』と宣言しました(笑)」
初めての管理職では、部下の指導や育成に悩み続けた。中村さんがリーダーとして一番大切にしたのは「チームづくり」。よいチームができれば個々の能力も自然とアップし、チーム力もさらに上がっていくはず。それが会社のため、ひいてはお客さまのためになると考えた。
ただ、一人ひとりの特性を生かしながらチームをまとめるのは、想像以上に大変だったという。まずは各課員に頻繁に話しかけ、それぞれの訪問先にも同行して、全員の人柄や営業スタイルをつかむよう努めた。そうして個性を把握した後は、皆の机を回ってオープンスペースでの“おしゃべり”を実行。われ関せずという態度の課員も、あえて話の輪に引き込むよう心がけた。
「そのうち課員同士の会話が増え、互いが互いを気にするようになりました。自分の担当分野では率先して皆をとりまとめる、とってきた情報を共有するといった習慣もでき、全員が『皆の役に立ちたい』という意識を持つように。本当によく成長してくれた、と大きな喜びを感じました」
この時部下だった課員たちは今、大いに活躍しているという。悩み続けた2年間は、自身のリーダーシップを磨く上でもよいステップになり、浦和支店支店長、そしてプライベート・バンキング第三部長へと道が拓けていった。
両立に奔走した時期を乗り越え、「今は以前より少し余裕ができてきたかな」と笑う中村さん。これからは役員として視野を広げると同時に、若手の育成にも力を注ぎたいと語る。後に続く女性社員たちの道を切り拓くことも大事な務めの一つ。そのためにも、自分の経験を伝える機会を増やしていくつもりだ。
「でも、私の両立経験だと仕事のウエートが高すぎて、あまりいい例とは言えませんね(笑)。若い人は私みたいに必死にならないで、周囲の協力や制度を活用して要領よく両立してほしい。長く働き続けよう、がんばろうと思えるように、自分なりのベストバランスを見つけてほしいです」
そう言った後、「私はずっと早足で、足元ばかり見て進んできたから」と、少し懐かしそうにほほ笑んだ。若手時代の奮闘は、今は働くママとしての大きな経験値に変わった。歩みながら空を見上げる心の余裕もできた。できることを一つひとつ、焦らずにやっていけばいい。そんな思いを胸に、今度は執行役員の責務にも取り組んでいく。
役員の素顔に迫るQ&A
Q 好きな言葉
明日は明日の風が吹く
「失敗しても気持ちを切り替えて、明日はまた新たに踏み出そうという気持ちになれます」
Q 趣味
子どもが所属する部活の試合観戦と応援
Q 愛読書
『下町ロケット』池井戸 潤
Q Favorite Item
ペン
「仕事の必需品。それぞれ課長、支店長、役員になった時にいただいた記念の品です」