田原祐子さんは、1998年に経営コンサルティング会社を起業。その10年後、東京と広島を拠点に忙しくし飛び回っていた矢先、父親が倒れて介護に直面しました。さらに母親の認知症が始まり、妹の脳腫瘍が見つかり、家族3人が同時期にケアが必要な状態に。何度も難しい局面に立ちながら、それでも仕事を続けることを選び、それを貫いてきた理由とは――。父と妹を看取った今だから語れる仕事と家族のこと。3回の短期集中連載でお届けします。第1回目は突然やってくる介護にどんな心構えが必要か。

介護は、ある日突然に……

「このままだと確実にまひが残ります。倒れて4時間以内に治療薬を点滴すればまひも残らずよくなる可能性がありますが、副作用もあります。まれにですが、後遺症が残ることがあります。点滴するかどうか、長女さん(私)にすぐ決断をしていただきたい」

出張のため広島の自宅を空けていた私の携帯電話に、母からの緊急電話。電話口で話しているのは、今しがた父が運び込まれたという救急病院の医師です。自宅でロレツが回らなくなってきた父の様子を見ていた妹が、119番コールして一命を取り留めたという母の説明を聞き終わらぬうちに、電話の向こう側で低い声で話す医師。私はと言えば、先ほどまで激論を交わしていた会議から、頭がうまく切り替わらず朦朧(もうろう)としているのに、容赦なく決断を迫られます。

「4時間以内? 今、何時間経っているのですか?」
「2時間ほど、経っていると思います」
「それでは、あと2時間しかないのですね。今から点滴して、間に合いますか?」
「はい、間に合うと思います。どうされますか?」
「……お願いします、父に点滴してください。よろしくお願します」
「わかりました。すぐに処置します」

※写真はイメージです(写真=iStock.com/byryo)

祈るような気持ちで新幹線に飛び乗り、広島駅に到着したのは夜の10時。駅からタクシーを飛ばして、救急病院に到着しました。治療薬が効いて、父にまひが残ることはありませんでしたが、この日以来、私は介護と仕事の両立を迫られることになったのです。

ある日突然、何の前触れもなく直面するのが介護。介護と育児が比べられることがありますが、介護は育児のように予測ができず計画も立てられません。親が60歳を超えているなら、いつでも介護に対応できるよう準備を整え、知識や情報を身に付けておく必要があります。責任のある仕事をしている人ならなおさらです。

仕事とキャリアと家族と

外資系派遣会社のスタッフからキャリアをスタートした私。昇格してスタッフを育成するマーケティングトレーナーを務めた後、経営コンサルティング会社で新規事業立上げの責任者を5年間経験。その後1998年に起業し人材育成と営業戦略をメインのドメインとするコンサルティング会社を設立しました。父が倒れたのは会社を設立して10年ほど経った頃。「起業後10年以上続く会社は1割にも満たない」と言われる中、業績は伸び、年間100日以上は出張で自宅を空ける多忙な日々を過ごしていました。

私たち家族(夫と二人の娘たち)は、両親と妹が暮らす広島にある実家の隣に住居を構え、隣に居ながら2~3週間以上顔も合せることがないというような、つかず離れずの生活をしていました。子どもたちが小さいうちは父や妹は子どもたちをかわいがってくれ、母にもお世話になり、自由に仕事もできて、隣居も悪くないなと思っていたのです。

親が倒れれば、自分が家長になるしかない

しかし家族の長である父が倒れたその瞬間、事態は思わぬ状況に急変してしまいました。これまで家長である父にすべての決定をゆだねてきた母も妹も、この事態になって私にすべてを任せようとします。父に点滴をするか否かという判断も、本来配偶者である母がすべきですが、気が動転してそれどころではありませんでした。「祐子に」と生死を左右するかもしれぬ決定をゆだねるのも無理もない状況でした。この瞬間から私は、病院や施設の選択、実家の改修から数年後に迎える父と妹の葬儀まで、実家にかかわるほぼすべてのことを、自分で決めなくてはならなくなったのです。

自分の人生の選択なら、自己責任で済みます。しかし介護をするということは、両親や兄弟の人生にかかわる選択まで判断していくということを意味していました。それは大きな覚悟が必要なことです。

1カ月で受けた退院勧告

まひも残らず一命を取り留めた父は、救急病院の手厚い看護とリハビリで、次第に回復してきました。2週間もする頃には文字も書けるようになり、車いすも自分で動かせるようになってきました。「このままここに入院させてもらえば、父は入院前以上に元気になってくれるかもしれない」。そう思った矢先、病院の事務局から呼び出しがありました。救急病院は、1カ月以上は入院できないという退院勧告です(現在は、救急車を受け入れる病院で平均在院日数10~12日間、18日以内と、さらに短くなっています)。

「退院しろと言われても、まだ父は普通に生活できるような状態ではありません。母も高齢ですし、妹もがんを患っていたので体調も不安定です」
「いえ、これはルールですから、退院していただきます。2~3日の猶予は差し上げますので、次に行かれる病院か施設を探してください」
「次に行く施設、ですか?」

説明を聞くと、リハビリテーションをしてくれる病院に3カ月ほど入院はできるが、そこもまた3カ月で退所しなくてはならないということでした(回復期リハビリテーション病棟では病状により90日~150日、重篤な疾患の場合で最大180日入院可能)。介護や病気についての知識がなかった私は、手厚い看護の救急病院に父をずっと置いてもらえると思ってぬか喜びしていたという、お粗末な状態でした。こうしたルールはあらかじめ知っておく必要があります。

1日に何度もくる病院からの呼び出し

救急病院からいくつか病院や施設を紹介され、自宅からも比較的近い、リハビリテーション病院に父を転院させることにしました。ほっとしたのもつかの間、病院からの呼び出しが一日に何度もあり、仕事に支障を来すほどになってきました。入院のための分厚い書類や入院関連の身の回りの準備はまだよいとしても、入院許可に至るまでの、医師やケアマネジャー、介護の担当者との度重なる面談には、ほとほと困りました。

「田原さん、お父さんのことで話し合いをしますので、〇月〇日〇時に来てください」
「いえ、仕事で行けません。」
「それなら、仕事をお休みして来てください。皆様そうしていらっしゃいます」
「ムリですよ。簡単に仕事は休めませんし、行けません」
「それは、困りますね。」
「時間をずらしていただくことは、できますか?」
「できません。先生(医師)のいらっしゃる時間は、決まっています」
「……」

こうしたやり取りを、何度も病院と繰り返しました。会議中だと伝えているのに、何度もかかってくる電話にもうんざりしていました。

自分のビジネス仲間なら、スカイプやZOOMでミーティングをしたいところですが、そのような提案ができるはずもありません。

介護は手続きに時間がかかり、家族の呼び出しも頻繁です。対策はなかなか難しく、唯一できるとすれば、なるべくその後発生する役所等への用事も済ませてしまうなどスケジュールの工夫をすることくらいです。

試練は多忙な時に、やってくる

病院に呼ばれて待たされ、半日以上拘束される時間。「この時間に、どれだけ仕事ができるか」「どんどん仕事が遅れてしまう」というじりじりした気持ち。うっすらとした遠い記憶の中に、これに似た気持ちを感じたことがあることを思い出しました。

それはまだ娘たちが幼い頃、よく病気になって、幼稚園から呼び出しがかかり、病院に連れて行っていた頃のことです。当時は会社員でしたが、娘がベッドで点滴をうけている傍らでパソコンを打ち続け、「ママ、寝られないよ……」と、娘たちに言われていたのです。

娘たちが中学に入学した頃はいじめの全盛期で、いじめに遭っていた娘のことでも、よく担任の先生から呼ばれていました。しかし、その時きちんと向き合うことをしなかった私は、その後、娘の心の病というもっと大変な試練に苦しむことになっていったのです。

それにしても試練とは、仕事が最も忙しいまさにその時期に、まるで“お試し”のように降りかかってくるものだなと思います。「大切なことを、おざなりにしていませんか?」「何か、見落としていませんか?」と問いかけんばかりに。

大切な家族と責任ある自分の仕事を全うするため、私はこの時、介護に向き合う覚悟を新たにしました。そして頼りにできる施設を探し、あらゆる外部サービスも利用して乗り切る体制を整えていったのです。試練がやってきたときに逃げたり避けたりしてしまえば、その後さらに大きくなって戻ってくる。それを、身をもって経験していたからでした。

田原 祐子(たはら・ゆうこ)
ベーシック代表取締役 日本ナレッジ・マネジメント学会理事
1959年生まれ。関西学院大学卒業後、外資系人材派遣会社の教育トレーナー、経営コンサルティング会社の新規事業室長を経て、98年にベーシックを設立。現場の実践指導から理論を組み立て、「暗黙知」を「形式知化」する「フレーム&ワークモジュール®」というメソドロジーを開発。「気づき・考える」人材の育成と実績向上に寄与し、同時にビジネスパーソンのセルフメディケーション(メンタル・デトックス)を手掛けている。全都道府県で指導した会社は1300社以上、育てた営業マンは12万人以上。2015年、16年と2年連続で全日本能率連盟賞を受賞。『マネージャーは「人」を管理しないで下さい。』など著書多数。介護離職防止対策アドバイザー。東証一部上場会社の社外取締役も務める。